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『PSYCHO-PASS サイコパス』から考える。犯罪のない社会は理想郷なのか?

 皆さんいかがお過ごしでしょうか?さて突然ですが、『PSYCHO-PASS サイコパス』というアニメをご存知でしょうか?

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 舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」が導入された西暦2112年の日本です。人々はこの値を通称PSYCHO-PASS(サイコパス)と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていました。その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていました 。
 そのような監視社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省の内部部局の一つである警察組織「公安局」に属する刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行っていました 。本作品は、このような時代背景の中で働く公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描いています。

 ちなみに私はこの作品をきっかけにアニメを見始め、読書を始めました。『PSYCHO-PASS サイコパス』というアニメは、哲学的要素が多く知的好奇心を刺激する作品であるので、語るべきことは多岐にわたりますが、今回はPSYCHO-PASSが描く「犯罪のない社会は本当に理想郷なのか?」に絞って議論していきたいと思います。

PSYCHO-PASSが描く(ほとんど)犯罪のない社会

 さて、PSYCHO-PASSには「犯罪係数」という重要な用語が出てきます。犯罪係数とは、シビュラシステムによって数値化されたパラメータの1つで、犯罪者になる危険性を表した数値です。上昇した犯罪係数は、セラピーによって下げることのできる数値に限界があるとされており、数値が一定の基準を超えて回復しない者は、犯罪を犯す以前に「潜在犯」と呼ばれる犯罪者として扱われ、社会から実質的に排除・隔離されます。
 このシビュラシステムによって、高度に治安が保たれた社会が実現しました。例えば、法を犯そうと考える時点で、犯罪係数がオーバー80となって、罪を犯す前に潜在犯となってしまいます。そのため、PSYCHO-PASSが描く世界はほとんど(ノーマルな)犯罪は起きません。アニメとしては、主人公がこのシビュラシステムの裏をかいたような犯罪を捜査します。
 このような社会システムでは、犯罪者がほとんど出ないため、被害者もほとんど出ません。これは一見、理想的なようにも見えますが、本当にそうなのでしょうか?

参照する書籍『社会心理学講義〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』

小坂井敏晶著『社会心理学講義〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』(筑摩選書)は社会システムの「同一性」と「変化」を考察したものです。また「人間とは何か」を問う書でもあり、小坂井氏の研究成果が詰まったものとなっています。ただし、本書の中でも断られているように、社会心理学を俯瞰するような教科書ではありません。

犯罪とは社会規範からの逸脱である

 そもそも犯罪とは何なのでしょうか?私たちは犯罪を議論の余地なく糾弾されるべきものと考えがちですが、犯罪正常説というものもあります。小坂井氏は社会システムの開放性について説明する際に、フランスの社会学者デュルケムの犯罪論を参照しています。次の文章はデュルケムの引用です。

殺すなかれという命令を破る時、私の行為をいくら分析しても、それ自体の中に非難や罰を生む要因は見つけられない。行為とその結果[非難や罰]は無関係だ。殺人という観念から非難や辱めを演繹的に取り出すことはできない。[中略]処罰は行為内容から結果するのではなく、既存の規則を遵守しないことの帰結だ。

 少し難しいかもしれませんが、要するに、行為の内在的性質(殺人はコレコレという理由からダメです)によって犯罪性は決まらないということです。犯罪は単に社会規範からの逸脱に過ぎないのです。もう少し具体的に説明すると、そもそも社会規範は絶対的な価値ではなく人々の相互作用の産物であるので、そこに内在的な根拠や理由がありません。したがって、社会規範からの逸脱である犯罪に行為の内在的性質は問われないのです。

社会の新陳代謝

 先ほどのデュルケムの議論をまとめるとこうなります。行為が正しいかどうかは社会的・歴史的に決まるということです。
 わかりやすく言えば、美人の基準と同じようなものです。顔をどれだけ眺めても女性の美しさは分かりません、なぜなら美の根拠は外部すなわち社会規範にあるからです。美しいから美人と呼ばれるのではありません、美しいと社会的に感知される人が美貌の持ち主だとみなされます。同様に、悪い行為だから非難されるのではなく、我々が非難する行為が悪と呼ばれるのです。因果は逆なのです。

 これまでの議論を踏まえると、社会の新陳代謝は以下のように起こります。 

共同体が成立する
→ 規範が生まれる
→ 逸脱が感知される(全員が同じ価値観を持たないので)
→ 逸脱の一部は独創性として肯定的評価、他の一部は悪と映る

 つまり、犯罪と創造は多様性の同義であり、硬貨の表裏のようなものだということです。
 小坂井氏の言葉を引用します。

自らが生きる時代の価値観を超えようと夢見る理想主義者の創造的個性が出現するには、その時代にとって価値のない犯罪者の個性も発現可能でなければならない。前者は後者なしにありえない。

 社会の支配的な価値観に対して逸脱者・少数派が反旗を翻すと、安定した状態に楔を打ち込むことになり、社会(システム)が不安定な状態になります。少数派と多数派との間で繰り広げられる対立から次の安定状態が生まれ、社会が変遷します。これが社会の新陳代謝であり、開かれたシステムとしての社会です。

犯罪は正常な社会現象である

 これまで見たように、犯罪は社会の機能不全が原因ではなく、社会の新陳代謝で必然的に生じるものです。悪い出来事は悪い原因から生じるという考えが誤りだと言えます。社会がうまく機能しないから犯罪などの悪い出来事が起こるのではなく、社会が正常に機能するから必然的に問題が起こるのです。つまり、犯罪は正常な社会現象だということです。
 小坂井氏によれば、資本主義経済における失業者や、交通事故に医療事故も同様にシステムが正常に機能するがゆえに生じる現象であり、そのシステムの論理自体に内包されています。

 最後に、小坂井氏の言葉を引用します。

もし同じ規範を全員が守るならば、社会は変化せず停滞する。いつまでも同じ価値観が続く、歴史のない社会です。犯罪のない社会は原理的にありえない。どんなに市民が努力しても、どのような政策や法体系を採用しても、どれだけ警察力を強化しても犯罪はなくならない。悪の存在しない社会とは、すべての構成員が同じ価値に染まって同じ行動をとる全体主義社会です。犯罪のない社会とは理想郷どころか、ジョージ・オーウェルの作品『1984年』に描かれるような、人間の精神が完全に圧殺される世界に他ならない。

 つまり、小坂井氏によれば、犯罪のない社会とは、全員が同じ規範(価値観)を守る全体主義社会です。これはユートピアではなくディストピアです。

 小坂井氏の議論を踏まえれば、PSYCHO-PASSで描かれるほとんど犯罪が起こらない社会は、社会自体がほとんど変化しないような創造も発展もなく歴史もない悪夢のようなものかもしれません。何も新たなものが創造されないということを想像することは少し難しいかもしれませんが、私たちが消費する娯楽や家電製品を思い浮かべると理解しやすいかもしれません。
 もちろん、PSYCHO-PASSというアニメは、シビュラシステムによる支配がディストピア的に描かれており、登場人物の一人がシビュラシステムをパノプティコンに喩える場面も出てきます。
 ただ、シビュラシステムが志向する「犯罪のない社会」自体を批判・拒絶する人は少ないのではないでしょうか?「シビュラシステムによる人間心理への介入はプライバシーの観点から好ましくないが、犯罪のない社会を目指すという方向性は間違っていない」と。しかし、これまでの議論で見たように、犯罪のない社会というのはそもそも語義矛盾の可能性があり、それは全員が同じ規範を遵守するないし遵守するように誘導される全体主義社会なのかもしれません。

 ここまで読んでどのような感想を持たれたでしょうか?許容できない主張もあったのではないでしょうか?例えば、性犯罪のような行為も正常な社会現象なのでしょうか?この意見についても、小坂井氏は『社会心理学講義』の中できっちり反駁しています。興味のある方はお読みになってみてください。また、『PSYCHO-PASS サイコパス』というアニメも面白いのでぜひ配信などでご覧になってみてください。

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