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【読書記録11】それは突然に、なんの前触れもなく。

 皆さんいかがお過ごしでしょうか?

 今回紹介する本は、村上春樹著『女のいない男たち』(文春文庫)です。

 2021年公開の映画「ドライブ・マイ・カー」は、本書『女のいない男たち』の村上春樹による同名の短編小説を基に、濱口竜介が共同執筆・監督したものです。

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 本映画は、第74回カンヌ映画祭で脚本賞受賞ほか全四冠に輝いています。

『女のいない男たち』(文春文庫)

 本書『女のいない男たち』(文春文庫)には珍しく、「まえがき」があります。まえがきにおいて、本書は短編作品集ですが、雑多に集めたものではなく、1つのモチーフの下に集められたものであることが記されています。

『神々の子どもたちはみな踊る』の場合のモチーフは「一九九五年の神戸の震災」だったし、『東京奇譚集』の場合は「都市生活者を巡る怪異譚」だった。そういう「縛り」がひとつあった方が話を作っていきやすいということもある。
 本書のモチーフはタイトルどおり「女のいない男たち」だ。
まえがき

 ただ、上記の2作品と異なる点は、本書『女のいない男たち』にはファンタジー要素がありません。しゃべるカエルも猿も出てきません。村上春樹に苦手意識のある人の中には、「唐突に現れるファンタジー世界が受け付けられない」ということが1つにあると思いますが、本書にはファンタジー要素がないので、苦手な人も安心して読めるのではないかと思います。

 以下では、印象的な文章やセリフを断片的に紹介したいと思います。

「ドライブ・マイ・カー」

 舞台俳優の家福かふくは亡き妻の記憶に苛まれ続けます。なぜ他の男と寝たりしたのかと。

「女の人が何を考えているか、僕らにそっくりわかることなんてないんじゃないでしょうか。僕が言いたいのはそういうことです。相手がたとえどんな女性であってもです。だから家福さん固有の盲点であるとか、そういうんじゃないような気がします。もしそれが盲点だとしたら、僕らはみんな同じような盲点を抱えて生きているんです。だから、あんまりそんな風に自分を責めない方がいいように思います」
「ドライブ・マイ・カー」

「イエスタデイ」

 大田区の田園調布で生まれ育つも完璧な関西弁を話す木樽きたると、兵庫県芦屋市で生まれ育ち上京して標準語を話す大学生の主人公という、対照的な設定が面白かったです。

 木樽には小学校からつきあっている女の子がいた。幼馴染のガールフレンドというところだ。(中略)写真を見せてもらったが、思わず口笛を吹きたくなるくらいきれいな女の子だった。
「イエスタデイ」

 この短編のタイトルが「イエスタデイ」になっているのは、木樽がビートルズの『イエスタデイ』に関西弁の歌詞をつけて歌っているからです。

 昨日は/あしたのおとといで
 おとといのあしたや
「イエスタデイ」

「独立器官」

 この話の主人公である渡会とかいが抱える不安については、noteの記事に書いたので、興味のある方はぜひ読んでほしいです。

 この短編は〈独立器官〉という発想が興味深いです。

 すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている、というのが渡会の個人的意見だった。どんな嘘をどこでどのようにつくか、それは人によって少しずつ違う。しかしすべての女性はどこかの時点で必ず嘘をつくし、それも大事なことで嘘をつく。大事でないことでももちろん嘘はつくけれど、それはそれとして、いちばん大事なところで嘘をつくことをためらわない。そしてそのときほとんどの女性は顔色ひとつ、声音こわねひとつ変えない。なぜならそれは彼女ではなく、彼女に具わった独立器官が勝手におこなっていることだからだ。
「独立器官」

「シェエラザード」

 物語の冒頭は次のように始まります。

 羽原はばらと一度性交するたびに、彼女はひとつ興味深い、不思議な話を聞かせてくれた。『千夜一夜物語』の王妃シェエラザードと同じように。
「シェエラザード」

 羽原はその女性をシェエラザードと名付けます。

 また、女性を失うことがどういうことかを羽原が考えるシーンも興味深いです。

しかし羽原にとって何よりもつらいのは、性行為そのものよりはむしろ、彼女たちと親密な時間を共有することができなくなってしまうことかもしれない。女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった。そしてシェエラザードは彼にそれをふんだんに、それこそ無尽蔵に与えてくれた。そのことが、またそれをいつか失わなくてはならないであろうことが、彼をおそらくは他の何よりも、哀しい気持ちにさせた。
「シェエラザード」

「木野」

 ある時を境に木野きのが経営するバーに怪しい気配が包む話である。木野は17年間務めた会社を辞め、伯母が経営する喫茶店をバーに改装して引き継ぐ。木野がなぜ会社を辞めたのかというと、木野の最も親しかった同僚に妻を寝取られたからである。つまり、木野は妻と別れ、会社を辞め、一人でバーを始めたのである。

 木野はその訪問が、自分が何より求めてきたことであり、同時に何より恐れてきたものであることをあらためて悟った。そう、両義的であるというのは結局のところ、両極の中間に空洞を抱え込むことなのだ。「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と妻は彼に尋ねた。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、と木野は認めた。
「木野」

「女のいない男たち」

 最後の短編である「女のいない男たち」はこの短編集の最後にふさわしい、かなり抽象的な短編になっている。

 彼女が去り、それほど僕がその時に懊悩おうのうしたか、どれほど深い淵に沈んだか、きっと誰にもわからないだろう。いや、わかるわけはない。僕自身にだってよく思い出せないくらいなのだから。どれほど僕は苦しんだのか?どれほど僕は胸を痛めたのか?哀しみを簡単に正確に計測できる機械がこの世界にあるといいのだけれど。そうすれば数字にしてあとに残しておけたのだ。
「女のいない男たち」
 ある日突然、あなたは女のいない男たちになる。その日はほんの僅かな予告もヒントも与えられず、予感も虫の知らせもなく、ノックも咳払いも抜きで、出し抜けにあなたのもとに訪れる。ひとつ角を曲がると、自分が既にそこにある、、ことがあなたにはわかる。でももう後戻りはできない。いったん角を曲がってしまえば、それがあなたにとっての、たったひとつの世界になってしまう。その世界ではあなたは「女のいない男たち」と呼ばれることになる。どこまでも冷ややかな複数形で。
「女のいない男たち」

全てを読み終えて

 私は村上春樹の文章をしばしば「水もしたたるいい文章」と形容しますが、水のように流れるように滑らかな文章です。
 最後の短編「女のいない男たち」の引用で紹介したように、ある日突然、女のいない男になるのです。その男性にとっては何の前触れもない突然の出来事ですが、相手の女性にとってそうではないのでしょう。女性が抱える感情の変遷に男性が気づかないため、男性はそれが晴天の霹靂のように思えるということです。そして、本書『女のいない男たち』を読めば、その原因のいくつかは去られた男性の中にあることがわかります。気づかなかったり、目を背けたり、深く考えなかったりするだけで。

 すべてを読み終えて、一番印象に残っているは「イエスタデイ」です。その短編では、木樽がビートルズの『イエスタデイ』を関西弁で歌っていますが、ビートルズの『イエスタデイ』はまさに「女のいない男」の歌です。
 最後に、ビートルズの『イエスタデイ』の歌詞とその和訳を付します。本書『女のいない男たち』を読了した後にこの歌詞を読むと、よりその内容を理解できたような気がします。

Yesterday, all my troubles seemed so far away
Now it looks as though they're here to stay
oh, I believe in yesterday

昨日は、悩みなんて遥か遠くにいたのに
今はここにいるかのようで
Oh, まだ昨日のような日を信じてる

Suddenly I'm not half the man I used to be
There's a shadow hanging over me
Oh, yesterday came suddenly.

突然 僕は昔と全然違う男みたいに
影に覆われているんだ
Oh, 突然やって来たのさ

Why she had to go?
I don't know, she wouldn't say
I said something wrong
Now I long for yesterday.

どうして彼女は行かなくちゃならなかったんだ?
わからないんだ、言ってくれなかった
何か間違ったことを言ったのかな
今はもう 昨日のような日を待ちわびてる
洋楽CaffeのHPより

 今回は以上です。

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