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【読書記録9】〈じぶん〉とは何者か?をめぐる哲学的思索。他者との危うい関係を考え直すきっかけにも。

 皆さんいかがお過ごしでしょうか?

 今回紹介する本は、鷲田清一著『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)です。

 本書は、臨床哲学などを専門にしている鷲田清一氏による〈わたし〉に関する論考です。200ページに満たない小著ですが、読み応えのあるやや難解な議論が続きます。ですが、ひどく晦渋な文章というわけではありません。読者の固定観念を揺さぶる知的好奇心に富んだ書です。

女の子は「女装」によって女になる

 「じぶんとはいったい何者か?」を人生の中で自問したことがある人は少なくないと思います。例えば、「自分らしく生きたい」と考えたときに、では、人とは違う自分らしさとは何なのか?という問題に突き当たってしまいます。私にだけ固有のものはあるのだろうか?と。しかし〈わたし〉とは誰か?という問いを自分の内側に求めても、何も見つかりません。

 鷲田氏によれば、わたしが「だれ」であるかは、社会の中で形成されるという側面もあると言います。そこで紹介されている女の子は「女装」によって女になるという話が面白いです。

 はじめておめかしするとき、たぶん多くの女の子はじぶんが「女装」しているような気分になるだろう。いや、おとなになってもそうかもしれない。でも、「女装」を強いるひとたちがいる。まわりにいっぱいいる。そしてそれをしかたなく、くりかえし受け入れているうちにじぶんは「女」になっていた。大股であるけなくなっていた。
 わたしたちはふつう、成長するということはさまざまの属性を身につけていくことと考えているが、ほんとうは逆で、年とともにわたしたちはいろいろな可能性を失っていくのではないだろうか。

 わたしたちはその社会で求められる属性を身につけて生きていきますが、実は私たちは知らない間に色々なものを失っています。失いながら生きていると言った方がいいかもしれません。
 私たちが失ったもの。それは、そうでありえたかもしれない、でももうそはなれないじぶんだと、鷲田氏は言います。

本当の自分はどこにあるのか?という不安

 ここで鷲田氏は、精神科医のロナルド・Ⅾ・レインの考え方を紹介しています。先ほど、ありえたかもしれないじぶんを次々と捨てていくことで、はじめて<じぶん>が形成される、と記しました。レインはこのことを「エクスタシーの放棄」と呼びました。
 私たちが常に一定の「誰か」であるということは、「別の誰かになる」=「自分でなくなる」というエクスタシーの様々な可能性を縮減して、社会の中でイメージとして公認されているある人格のタイプに自分を合わせることによって可能になります。

 しかしそうだとすると、結局私たちにとって、じぶんだけに固有のものが何なのかということがとても覚束なくなってしまいます。じぶんにはじぶんにしかない特別なものがないのだと、ついつい否定的に考えてしまいます。

 この覚束なさから来る不安を小説の中にも見ることができます。村上春樹著『女のいない男たち』(文春文庫)に収録されている「独立器官」という短編作品があります。

 美容整形外科医である渡会とかいという50代の独身男性が主人公に自分の不安を吐露するシーンです。

「(前略)私生活に不満はありません。友だちも多くいますし、身体も今のところ問題なく健康です。生活を私なりに楽しんでいます。しかし自分とはいったいなにものなのだろう、最近になってよくそう考えるんです。それもかなり真剣に考えます。私から美容整形外科医としての能力やキャリアを取り去ってしまったら、今ある快適な生活環境が失われてしまったら、そして何の説明もつかない裸の一個の人間として世界にぽんと放り出されたら、この私はいったいなにものになるのだろうと」 (独立器官)

 渡会医師はアウシュビッツに送られた内科医の話を本で読んでそのように思ったそうです。
 これはまさに、じぶんだけに固有のものとは一体何なのかという不安の告白に他なりません。美容整形外科医のイメージとして社会に公認されている人格のタイプに自分を合わせることで、美容整形外科医として生きてきた渡会にとって、仮にその「美容整形外科医」という属性を棄ててしまえば、何も残らなくなってしまいます。

 この覚束ない不安を感じるからこそ、「じぶんらしさ」などという曖昧な言葉で「自分探し」を始めようとする人が多いのだろうと、鷲田氏は推察します。「じぶんは誰なのか?」と問うて、それを自分の中に探し求めても、それ自体がとても困難なことで、より不安になるだけかもしれません。
 そこで鷲田氏は、自分の内側ではなく、自分の外それも他者との関係に〈じぶん〉を見出すことが一つの解決策なのではないかと考えます。その他者との関係を考えるにあたって、次の例が興味深いです。

男の子と母親との関係の話

 学校から駆け出してくる幼い男の子を、母親が腕を広げて待っているという場面で、この出会い方には4つのタイプがあると、先ほどで出てきた精神科医のレインは言います。

1 彼は母親に駆け寄り、彼女にしっかり抱きつく。彼女は彼を抱き返していう。「お前は母ちゃんがすき?」。そして彼は彼女をもう一度抱きしめる。

2 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらくが、彼は少し離れて立っている。彼女はいう「お前はお母さんが好きでないの?」。彼はいう「うん」。「そう、いいわ、おうちへ帰りましょう」。

3 彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は近寄らない。彼女はいう「お前はお母さんが好きでないの?」。彼はいう「うん」。彼女は彼に平手打ちを一発くわせていう「生意気いうんじゃないよ」。

4 彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて近寄らない。彼女はいう「お前はお母さんが好きでないの?」。彼はいう「うん」。彼女はいう「だけどお母さんはお前がお母さんを好きなんだってこと、わかってるわ」。そして、彼をしっかり抱きしめる。

 さて、男の子と母親との関係の4つのタイプを紹介しましたが、この中でどれが一番良い関係で、どれが一番危ない関係なのでしょうか?

 鷲田氏によれば、最初はたいていの学生が1と4が良い関係、2は少し危ない関係で、3はかなり危ない関係だと答えますが、議論をしていくうちに、逆に4が一番危ない関係で、3は結構良い関係だというふうにみんなの意見が変わってきたそうです。

《他者の他者》としての自己の不在

 1には友好的な関係が、一方2、3、4には対立的な関係が見て取れます。ここでは、なぜ4が一番危ない関係なのかについて書きたいと思います。なぜ4が一番危ない関係なのか、それは、他の3つと違い、4では、母親に対して別のあるいは分離した存在として男の子が立ち現れてこず、2人の間に自他の関係が発生していないからです。鷲田氏の言葉を引用します。

 ところが4では、「母親は、彼が自分はこう感じているということに対して聞く耳を持たず、彼自身の証言を無効化する感情を彼のものだとすることによって巻き返す。このような型の属性付与は、当の<犠牲者>が現実だと経験する感情を、非現実的だとするのである。このような仕方では、真の背離が闇に葬られ、にせの結合がつくりだされる」。ここでは、男の子が母親とは別の存在としておそるおそる首をもたげたとたん、「それはほんとうのおまえではない」というふうに、母親のなかで彼が占めるべき位置へと没収され、そうして母親に対する他者としての彼の位置が消去される。

 4での母親の行動から発せられるメッセージは、「あなたはじぶんがそのように感じているかもしれないが、あなたは本当はそのように感じているのではないないことをわたしは知っている」というものです。ここでは、《他者の他者》としてのじぶんは、その存在を認められていません。

 レインによれば、人は自分の行動が〈意味〉するところを他者に知らせることによって教えられるのだそうです。すなわち、自分の行動が他者に及ぼす〈効果〉によって自分が何者であるかを教えられるものであるということです。
 そうすると、ここでのこの男の子は母親に彼女にとっての他者として承認されていません。したがって、彼は自分にとっての他者に何の影響も与えることができません。それは「彼は誰にもなれない」ということを意味しています。だからこの関係が危ないということです。
 鷲田氏の言葉を引用します。

 わたしが〈わたし〉でありうるために、わたしは他者の世界のなかに一つの確かな場所を占めているのでなければならない。ところが、レインによれば、この男の子がいままさに経験しているのが、《他者の他者》としてのじぶんの存在の欠落なのだ。彼はじぶんじしんを他者にとって意味あるものとして経験できないのである。母親とのこうした関係のなかで、彼は、じぶんを意識するごとに、あるいはじぶんがある感情にとらわれるごとに、それを偽りの自分、にせの感情としてうけとめざるをえなくなる。

 〈わたし〉というものは《他者の他者》としてはじめて確認されるということです。例えば、風邪で学校を数日休んだあと、学校に戻って何の話題にもされない、ということはその子にとってとても不幸なことです。なぜなら、他者の中に自分が何か意味のある場所を占めていないことを思い知らされたからです。

《他者の他者》として自己を捉えなおす

 翻って、私たちは4での母親のように、相手に接してしまうことがあります。つまり、相手を自立した他者と見做さずに、自分の中のイメージに押し込むという行為です。わたしたちが接している具体的な他者は、それぞれが痛いと感じる箇所が異なる自立した他者であるという、自明な事実を私たちは忘却してしまいがちです。

 ところがわたしたちは、他者がじぶんとは異質のものとして一定のへだたりのなかで存在しているという単純な事実に直面したときも、その事実に耐えきれないで、他者をどうにかしてじぶんの理解のなかへ押し込め、じぶんの世界に同化させようとする。しかしそのようにしてわたしのまなざしの前に立つ他者は、観念化された虚構の「他」者、わたしの影にすぎない「他」者であって、わたしがいまままさに直面している問題としての他者、、、、、、、、ではないだろう。他者はもはやそこに存在しないのである。

 《他者の他者》として自分の存在を見出すことができないとき、私たちは不安になります。「私は必要とされていないのでは?」と感じてしまいます。
 一方、私自身の行動や態度に目を向ければ、ついつい自分の世界に相手を閉じこめてしまうことがあります。しかし、《他者の他者》としての自己の不在が、その人自身の「わたしとはだれなのか?」という不安を誘発することを理解すれば、自分の態度を改め、相手との危うい関係を解消し、相手も不安にならずに済むかもしれません。
 鷲田氏の言葉を引用します。

 じぶんというものがよく見通せない不透明なものだという感覚をかき消さないこと、と同時に他者がよく見えないという事実にいらだたないこと、そのときわたしたちは、他者の心持ちが理解できないからといって、他者の存在の現実性がそれだけ減ずるようなものではないということに気がつくかもしれない。あるいは逆に、じぶんのことがうまく理解できないちょうどそれと同じていどには他者が理解できるという希望をもつことができるかもしれない。

 〈わたし〉とは誰か?について考え、それを他者との関係に見出すことで、〈わたし〉が他者の中にないことの不安を理解することができ、結果的に、他者との危うい関係を見直すことができるということです。

《他者の他者》であることはポジティブなこと

 しかし、《他者の他者》として〈じぶん〉を見出すことは、簡単なことではありません。ときには、相手との対立や衝突を生み、自分自身が傷つくことがあるかもしれません。
 それでも、他者にとって意味のある存在として自分を経験すること、これによってしか〈わたし〉を見出すことができません。結局、レインも言うように、《他者の他者》であるかどうかは、他人の中にじぶんが意味のある場所を占めているかどうかにかかっています。
 エピローグで鷲田氏は次のように締めます。

わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。とりわけ、その問いをじぶんの内部に向け、そこになにかじぶんだけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、だれかある他者にとっての他者のひとりであるという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ。

 ただ、注意すべきことは、《他者の他者》であることは、他人に身を捧げ、自己放棄するような態度のことではないということです。それは単なる自己愛です。
 むしろ、ここでの《他者の他者》であることは、ポジティブに他者に関わっていくことを意味します。他者がわたしに関わってくれるから、わたしはここにいることができるのです。そして、他者にその存在を与えるため、同じことをわたしは他者に向けてしなければなりません。


 本書『じぶん・この不思議な存在』において、〈じぶん〉とは何者か?という問題に取り組み、その問いが内包する不安の正体を明らかにし、他者との関係に〈じぶん〉を見出すことを鷲田氏は主張しました。
 〈わたし〉とは誰か?について考え抜かれたこの論考は、読者の知的好奇心を掻き立てるものになっていると思います。興味を持たれた方は是非。

 今回は以上です。

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