見出し画像

アート鑑賞の記録[20]ー"彼は私には理解できない言語で、何か美しいことを言った。"

私は彼にこの美しい曲が何かを尋ねました。
彼は微笑みながら遮った。
「ちょっと待って、この箇所好きなんだ」

Miyagi Futoshi

  ベートーヴェンの弦楽四重奏第15番の第3楽章が流れていました。この楽章の名前は『Heiliger Dankgesang eines Genesenen an die Gottheit, in der lydischen Tonart』で、この楽章には美の究極形が凝縮されているように感じます。私も好きな曲で、映像作品は常にすべてを見るまでは分からないと思いつつ、集中力の欠如なのか興味の無さなのか、素通りしていく人たちに寂しさを感じます。

 美的実在論の本質は、太陽が海を金色に染める"Gold Field"といった情景に通じるものがあります。また、それは私が考える"The World of Whispering Silence"とも似ているように思えます。森の中で感じる強い孤独感と沈黙、それでいて自然の一部になれる感覚です。私も"Gold Field"の世界を見に、海へ行きたくなりました。


フロイトとユングの関係性に思いを馳せる

 このような体験は、物語の構造とコンセプチュアル・アートの融合から生まれるものです。それは形而上学的な現象とその具体的な表象、そしてそれに関連する意味や概念を並列に扱い、人々の固定概念に質問を投げかけ続けるアートです。

文脈を無視して笑いながらポートレートを撮る散歩的鑑賞者を眺めながら

 美しい景色が、爆撃によるクレーターに溜まった水であることを後から知った場合、その美しさはどう変わるのでしょうか。人々は表面だけを見て、その文脈を無視して通り過ぎていきます。しかし、そのような美が人々を傷つけたり、遠ざけたりすることもあります。傷つくことを恐れて文脈を無視することは、果たして芸術家として生きていると言えるのでしょうか。

人を理解するよりはアートを理解する方が容易い

 ヨーゼフ・ボイスが提唱した「社会彫刻」という概念を深く思い出します。この概念は、私たち一人一人が社会を形成する「芸術家」であるとするものです。そして、この芸術家としての役割は、「資本主義」に関する議論にも関連しています。マルクス、ケインズ、アダム・スミス—これらの思想家たちは、資本主義社会を形作る「社会彫刻」に無尽蔵のインプットをしています。その時代ごとの正解を追い求める先人たちの知恵も、これからの未来に当てはまるかどうかは分かりません。

経済論を学んでいない人がどう感じるのかも気になる

 このような複雑な社会において、私たちは常に異なる可能性を模索する必要があります。そして、その模索には、私自身を傷つける人も、大切な人を傷つける人々への理解も含まれます。私は本当の意味で共通言語で話せる人間には今まで出会ったことはありません。そのような孤独に対処するために、アートが常に私のそばにいてくれます。

 無目的な対話、アート、他者への慈愛、そして「想像力のない者はしね(by Diner)」という言葉の真意—これらはすべて「障害の概念を変える」ため、そしてその過程で私たち一人一人が成長するための道具だと考えています。そのために、仕事でもアートでも文章でも生き様でも、何でも良いので表現し続けることが、真剣に生きていれば自然と現れるものです。

数式の美しさ、可視化と体系化

「彼は私には理解できない言語で、何か美しいことを言った。」

Y

 その美しさは言葉にできないが、感じられるものです。私はこの複雑で美しい、そして時には痛みを伴う世界で、そのような美しさを追求し、理解し続けたいと心から願っています。

何度見ても、Pixel Artにしか見えない。好き。

 私が淡々と話す言葉で、涙を流してくれる人がいます。共通言語、ではないけれど、本当に人の心に近づこうとしているとそんな瞬間にも出会うことがある。そして、これまでの平坦ではない人生を淡々と語れる自分の蓄積にも驚かされながら、素直に辛い時は辛いと言える人も素敵だなと思います。
 
 アートとの体験と無目的的な対話を行き来することで、そんな瞬間に感謝しながら、「狂愚誠に愛すべし」と彼が遺した言葉を反芻する機会となりました。

 必要な経験を蓄積させながら、色々な人の悩み相談をずっと聞いているこの頃。アニマルスピリッツを無意識で潰すような構造、人、リアルな問題と向き合うことも非常に興味深い。唯キャッシュフローを考えながら、タイムリミットは常に意識している。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?