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金はあっても理想のない社会は崩壊する

 ドストエフスキーの「未成年」の一説だったはず。好きな言葉。金がないと人生が崩壊する資本主義に風穴を開けたい。

 昨日のコーチングセッションが印象深く、それを記録することが今朝の目的。教育格差や環境格差、障害福祉やスティグマについて深く思索し、その問題解決のためにこれまで20年間、命を燃やし続けてきた。何度か灰になっているので燃やすという表現が適切だと思っている。

 そして、全てに燃え尽きてきた経験もあるからこそ、些細な問題に心が揺れ動くことはないと自覚している。フリードリヒ・ニーチェが言ったように、「その人がどれだけ耐えうるかが、その人の真価を決める」。これが今の自分に対する最も的確な表現であるだろう。どれだけ真実に耐え、どれだけ真実を敢行できるか、だ。

 小学生の頃から論語と算盤を読み、障害福祉やスティグマについて学び、その時々の自分なりに仮説検証を繰り返してきた。第二、第三の糸賀一雄氏や渋沢栄一氏を育む組織の創設を目指している。とはいえ、これはあくまで主観に過ぎない。ただ、これまでの経験から、その可能性を秘めた人々と何度も出会う機会があり、その思いは深まるばかりだ。そうした人々と一緒に何かを創り上げることの素晴らしさは、太宰治が「人間は他人と共にあることで初めて人間らしくなる」と語ったように、我々の存在意義そのものであると確信している。ただ本質的には、人は人に影響を与えることもできず、また与えられることもできない、内発的動機と動物的身体性の維持で命を燃やせる状態を保ち続けるしかないようにも思う。

 キャリアという点では、何も語るようなものはない。コンサルや外資金融に進めば良かったと思うことがいまだになくもない。しかし、この20年間一貫して燃え続けた熱意が、今の自分を支えている。そしてその熱意が変わらぬものであることは、「父の子育てを正解にするため」「特別支援学級の友人の居場所をつくるため」から20年経った今も変わらず、その目指す方向はより大きなものへと拡がりつつある。

 昨日、ずっとお世話になっているメンターの方に言われた、「梓龍さんは命を燃やしても灰にならない」。その言葉が、自分の命を燃やす行為が無駄でないことを確信した。一度や二度といった程度ではなく、何度も生まれ変わる程に底辺を這いずり回ってきたからこそ、今目の前に広がる景色を変えたいと思う。

 MBAを少し齧ったり、プログラミングを20年間してきたという経験は何も意味を為さない。それらはあくまで「既得権益的な能力」であり、それに依存するのではなく、新たな挑戦を通じて薪をくべ、命を燃やしていく。それが自分の生き方であり、これまでの既得権益的キャリアで作れなかった未来を切り拓くことだと仮説立てしているので、検証していきたい。

 毎日が新たな飛躍の場、ロドス島だと思っている。しかし、その忙しさの中で、自分の感情、エモーショナルな思いを忘れないようにするためにも、こうして記録に残しておく。
 一年後の自分がどのように感じるかは未知数である。だが、一つだけは確かだ。それは、21年目も22年目も自分が命を燃やし続けていることだ。

 それはそうと、直近の夢はわんこと1週間、2人でキャンプに行くこと。これが中々難しい。

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