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無限のファミコンワールドを作りたい話(デジタルの中の祝祭性とコンヴィヴィアリティ)

 コンヴィヴィアリティ(自立共生)と祝祭性に関して話し合う機会があったので、近頃は戦争中の芸術や哲学に次いで、この事ばかり考えている。そんな中で、一つの自分なりの答えというか、自分のフェティシズムが見てみたい世界観を見つけたので残しておく。

 コンヴィヴィアリティという言葉に出会ったのはイヴァン・イリイチさんの著書「コンヴィヴィアリティと道具」で、この中で、
「自立共生(コンヴィヴィアリティ)とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものである」と定義している。これだけでは具体的にイメージしにくいと思うのでもう少し引用すると、

「人々は物を手に入れる必要があるだけではない。彼らは何よりも、暮らしを可能にしてくれる物を作り出す自由、それに自分の好みにしたがって形を与える自由、他人をかまったり世話したりするのにそれを用いる自由を必要とするのだ。」

という話が分かりやすい。つまりは、家族の中で、家事を分担する喜び、食事を消費するだけの依存した子供から、家族に料理を振舞う喜びを味わうお手伝いができる年頃への成長、のようなものが自立共生である。唯、あらゆるサービスをお金で消費する事で生きる事が可能な産業主義社会において、この自立共生が失われる事に疑問を抱かざるを得ない。

技術官僚の支配する産業主義的社会では、正義とは制度化された商品の平等な分配のことであり、生活の充足は、産業主義的商品の消費量によって測られる。しかしコンヴィヴィアルな社会では、これらはまったく異なった様相を呈するだろう。コンヴィヴィアルな社会とは、自分自身の未来のイメージを明らかにすることをあらゆる人々に許す社会のことであり、そのために、障害となる人工品を排除し、道具の活動を適切なレベルに制限する知恵をもっている社会のことである。そこでは、生存・公正・自律的な仕事が三つの基本的な価値になるのである。

 学生のうちに出会いたかった良書である。会社から与えられる仕事を淡々とこなす中で、この生存・公正・自律的な仕事をする、というのはかなり意識的に行ってきても難しい社会の中で生きている実感がある。それと同時に、このコンヴィヴィアリティな道具として、この当時まだ生活に普及していなかった「コンピュータやインターネット」への可能性を、自立共生という点において改めて注目せざるを得ないと思う。

 そしてもう一つ、祝祭性について。こちらについて考えさせられたのは、こちらの良書。「祝祭性と狂気」の中でこのような論考が行われている。

宮古島で触れた「カンダーリ(神垂り,神祟り)」と呼ばれる状態,その状態をくぐり抜けて「カンカカリャ(神懸かった人)」という社会的役割を担うようになった人たちは,著者にこれまでの活動と思考の全面的な見直し,さらには精神病理学の問い直しを迫った.

 これはコロナ禍において、夏祭りの中止、何十、何百年と続いてきたものが中止になるのが当たり前の2020になってしまった中で、祝祭性の役割を改めて考える機会であり、ただ「祭りが無くて寂しい」という感情を、只管に因数分解していくきっかけになった。また、そもそも絶対神などいない信仰性の中で、小さなコミュニティだけで何十年も続いている祝祭性には必ずや社会的な役割があると感じている。

 本書では精神病理学の視点から論考が為されているので、やや難解であるけれど、もっと単純に私が言いたいのは、「フェスやろうぜ」「祭り行こうよ」という話である。文化祭の時に、学生の自分達だけで出店を作ったり、イベントを企画したり、そうした刹那の自立共生の中で喜びを感じた人は多いと思う。恒常的なコンヴィヴィアリティの考え方とは少し逸れてしまうが、こうした「Have Fun!!」という感覚を日常の中に見出す事が社会には必要だと感じた人も多いのではないだろうか。

 そして、そんな祝祭性の中で、唯コンテンツを消費するだけではなく、そこでコンテンツを作る側、になる機会の創出に対してワクワクせざるを得ない。学生の時の文化祭、みたいなものを季節毎に行えたら楽しくないだろうか。しかも、そこにはオンラインでライブやイベントをやる事が当たり前になった今のご時世を上乗せしていきたい。

 分かりやすいと思ったのが、コロナ禍で卒業式がフィジカルに行えなかった時に起きた「マインクラフト卒業式」。これはまさしくイメージしたものにかなり近く、それでいて更なる可能性を感じたきっかけである。

 身体性を伴わない事による喜びの限界、を感じる事になった人が自粛中多かったのは、先日の四連休などを見てみてわかるが、果たして「本気のデジタルによる祝祭性」を見てみたらどうなるのかが興味深い。

 「デジタルによる祝祭性とコンヴィヴィアリティ」のイメージは、フォートナイトなどで流行るオンラインゲームに近い。それと、マインクラフト×シムシティ×RPGみたいな世界観が楽しそうに感じる。

 冒険する人もいれば、宿屋を営む人もいたり、武器屋になる人もいたり、ただ日常を楽しむ人がいてもいい。そうした自由度の高いゲームコンテンツは今までもあったが、それには必ず「世界の壁」を感じる事があった。果てしないフィールドも何十分か何時間か歩けば一周したし(ものによっては本当に壁があるし)、世界の人の行動の殆どが目に見える範囲で収まっていて、武器の種類も、食べられるものも、出てくるモンスターにも限界があって当然だった。
 そうしたデータの中の限界を突破する技術力が日々指数関数的に伸びていく中で、自分の中のフェティシズム、「8bit~64bitの世界」を掛け合わせて行きたいと思うようになった。凄く簡単に言うと、「ファミコンのデータ量で、オンラインワールドを築きたい」という事だ。
 1TB以上のHDが当たり前になったコンピュータ、5G通信が普及したインターネット時代において、一人の人間が消費するデータ量がファミコンソフト1本分の「24kb~128kb」くらいしかなければ、リアルワールドのような広大な世界が作れるし、様々なサービスとの関連付けで、身体性を喜ばせるようなコンテンツを作る事も難しくは無いと思う。

 DQVみたいなグラフィックの世界観で、好きなものを作り、売り、買い、冒険し、コミュニティを作る。自分の作ったものだけの世界をお互いに共有しあい、その中の財産がリアルワールドにも具現化する(安易に1G=1円でもいい)ような世界観の中で生まれる新たな価値観が興味深い。どうぶつの森にハマる人達が多かった事、その中で政治活動を行う人が出てきた事、美術展が開催された事、そんな事を思い出せば伝わるのかもしれない。

 ただ、誰かに用意されただけのコンテンツ、サービスにはコンヴィヴィアリティも無いし、祝祭性も低い。そこにはマインクラフトのようなブロックだけで作る独自の創造性や、限界の感じないリアルワールドのような世界線、自分が知らない事がデジタルの中にある感覚を求めていきたい。

 そもそもの問題として、ドット絵むき出しの世界観を好む人がどの程度いるのかと言えばとても少なそうではあるが、この辺はデザイン(意匠×設計×創意工夫)の仕方が重要だと思っているので、実現できる可能性を捨てずに考えていく。

 無限に広がるドラクエの世界で、好きな職業で全員が自立しながら生活を楽しんでいたらワクワクするけどなぁ、と思いながら寝る日々。

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