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生まれた時点で親孝行は終了している

「世の中に不満があるなら自分を変えろ。
それが嫌なら、耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。」

攻殻機動隊

 幼少期に純粋で無条件の愛情を親から受けた子どもは、それだけで十分に親孝行をしていると思うので、大人になって「孝行」として何かを返そうとする思考は基本的には必要がないと感じます。無条件の愛を注ぐ親の視点に立つと、共依存とまでは言いませんが、子どもがいるからこその感情を享受しているように感じるのです。

 同時に、幼少期に「無条件に愛する経験」を親に与えられなかった子どものみ、生きている間に無条件の愛を親に伝える必要があるとも考えます。唯、それは子どもにとってあまりに過酷で贈与の交換でもない不条理なものなので、自分に子どもができることがあれば、幼少期は特に無条件の愛を子どもに伝えられればと思いつつ、両親にもその経験をしてもらいたいと思っています。

 「親孝行」の概念は、孔子の儒教思想に端を発しています。孔子は「孝」を五常の一つとして位置づけ、それが社会の秩序や道徳的な基盤となると説きました。伝統的な東アジアの社会においては、この「孝」の価値が強く求められ、子供が親を敬い、その期待に応えることが強く推奨されてきた時代背景があります。

 西洋において、フリードリヒ・ニーチェは「自己の超克」という考えを提唱しました。これは、自らの価値観や考えを超えて新しい自分を創り上げるという意味を持ちます。この視点から「親孝行」を考えると、単に過去の価値観に縛られるのではなく、それを超えて新しい形の「親孝行」を追求すべきではないかと感じています。

 古代の親孝行は家族の絆や役割を重視するものであり、それは社会全体の安定にも繋がる大切な価値だった筈です。しかし、現代においては、生活の多様化によりその価値観が必ずしも受け入れられるわけではない状況が多々あります。シモーヌ・ド・ボーヴォワールが言っていたように、人は自分の自由を求めて生きる存在である限り、"私は自由である、ゆえに存在する"という彼女の言葉通り、私たちの「親孝行」も、その「自由」を中心に再定義すべきだと感じています。

 私は「共感」と「自律」の二つのキーワードを中心に新しい「親孝行」の感覚を持ち始めています。家族としての「共感」、そして個人としての「自律」。この二つをバランス良く持ちながら、お互いを尊重し合う新しい関係性を築いていくことが家族としての「自律」であり、親と子という関係から、縁起に繋がるような家族的な関係に止揚されていくきっかけになると思います。

 自分を変え続けることで、変えるべき世の中も変えていくための居場所は選ぶ必要もなく、同時に孤独であることも愛せるように。

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