見出し画像

真夜中秘密倶楽部



街外れの森をどんどん歩いて行ってみてください。
木々の合間をスポットライトのように落ちる月明かりを辿ったその先に、巨大な巨大な樹があるでしょう。
しかもただ大きなだけではありません。
ようく見てみると、その樹にはまんまるの窓がふたつ。
それだけではありません。
もっともっとようく見てみると、そこにはドアもあるのです。
そうしてそのそばに看板が出ていることに気がつくはずです。

それが、“真夜中秘密倶楽部”なのでした。

おや?

今日もひとり、お客さんが辿り着いたようですよ。



・・・



タダヒコは途方に暮れていた。
此処が何処なのか、皆目見当がつかなかったからだ。
気がつくと、見たことのない森の中にいた。
きっと途中で寝てしまったのだ。
途端に、自分が恥ずかしくなった。
早く起きようと思って頬を抓るが目覚める気配はない。
そばにある木を蹴ってみるが、爪先に硬い感触が返ってくるだけだった。


見知らぬ夜の森は不思議と怖くはなかったが、とにかく早く家に戻りたかった。
早く戻って原稿を描かなければ。
顔にかかる前髪を掻き上げながら、なんとなく明るく感じる方へ歩を進めた。


しばらく歩いていくと、急に開けた場所へ出た。
そこにはタダヒコの実家と同じくらいの大樹があった。
大きい。
呆気にとられて立ち尽くしていると、ふと、明かりがぼんやり浮かんでいるのに気がついた。

オカルトな夢は勘弁してくれ。

一瞬、ヒヤッとして痩せた身体を強張らせたが、よくよく見てみると、どうやら窓の明かりのようだった。
銀フレームのメガネを直しながら観察してみると、大樹にはドアもついていた。

ツリーハウスというのだろうか……。

なんとなく違う気がしたが、それしか単語が出てこなかった。
開けた場所に身体を晒すのはなんだか危険な気がして、慎重に一歩を踏み出す。

一歩。
二歩。

近づけば近づくほど、樹の物言わぬ存在感をヒシヒシと感じるようだった。

とうとうドアの前まで来た。
ドアの横には看板のようなものが出ていた。
対してズレてもいないメガネをもう一度直しながら読んでみる。
“真夜中秘密倶楽部”と、書いてあった。

秘密倶楽部、とは何なのだろう。
いわゆる一見さんお断りの店なのだろうか。
あるいは、会員制の場所なのかもしれない。

自分が入っていいものかどうか少し悩んでから、そういえばここは夢だった、と思い出して重厚なドアを押した。



内側は、オレンジ色の明かりで満ちていた。決して派手な明るさではないが、月明かりを頼りに歩いてきた目には少しばかり眩しかった。しっかりとは開けていられず、少しばかりまぶたを落とす。
どこからかジャズの音色が聴こえてくる。
目が慣れて見渡すと、そこは一見して喫茶店のようであった。バーカウンターがあり、2人がけのテーブル席が3つほど。
壁も床も天井も、バーカウンターもテーブルも、すべすべとした木で出来ていた。
芳醇で香ばしいコーヒーの香りと共に深い緑の香りが胸いっぱいに広がる。

どうやらここは、大樹の内側をそっくりそのままくり抜いて作った空間のようだった。

いらっしゃいませ。

声のする方を見ると、フクロウがいた。
正確にはフクロウらしきもの、だ。
フクロウは、タダヒコと同じくらいのサイズだった。
身長181cmのフクロウだ。
おまけに、白いシャツを着て黒いエプロンをしていた。
それはまるで、自分がここのマスターだと言わんばかりの格好だった。
普段のタダヒコならば常識的に考えてありえないと否定する光景だったが、まあ、夢だからと、思考を放棄した。

お好きな席にお座りください。

そう言われて、少し迷う。本当はカウンター席に座ってフクロウがどうなっているのかまじまじと観察したかったが、それは気が引けた。
夢とはいえ他人(?)をジロジロと見るのはあまり気が進まなかったし、現実世界でもカウンター席に座れるタイプではなかった。
見知らぬ人間と会話する可能性を極力、潰したいからだ。
店内を意味もなく2、3回見渡してから、3組あるうちのテーブル席の、真ん中を選んだ。
客がいないのに端っこに座って、暗い奴だと思われるのも嫌だった。


椅子とテーブルがガタつかないのを確認してから、腰掛ける。
しっとりと手に馴染む滑らかな木目のテーブルを、思わず何度か撫でてしまう。
気持ちが良い。
夢にしてはリアルだ。あるいは、夢だからこそこんなに気持ちがよく感じられるのかもしれなかった。
長方形に二つ折りされたシンプルなメニューを手に取る。
開く瞬間フクロウの書いた字が読めるのか、と思ったが、どうやらそれは杞憂だった。


上の方に筆記体で“MENU”と書かれたそこには、品物がたったひとつしか書かれていなかった。

“真夜中秘密倶楽部”

金で箔押しされたそれは、確かにそう書かれていた。
直感的に品物だ、と思っただけで、はたしてそれが本当に品物かどうかも定かでなかった。
説明もなければ、値段も書かれていない。まったくヒントがなかった。

途端に胃に不快感を覚えて、薄い腹を押さえる。
不安なことや、何か我慢しなければならないことがある時、タダヒコはいつも胃が痛いような気がする。


メニューを吟味するフリをしながら、横目でチラリとフクロウを盗み見た。
フクロウはなにやら作業をしているようだったが、カウンターが邪魔でその手元は見えなかった。

どうしよう。

手のひらにじんわり汗がにじみ、シャツを湿らせた。腹が生暖かいのを感じる。
平時でさえ、店員に何か質問するのは苦手だ。知らない単語があればいつもSNSをチェックするフリをして調べる。
だが、どうやら今は携帯電話を持っていないようだった。
そこで初めて、自分が財布も持っていないことに気がついた。
いよいよ胃がギュッとなる。
あるいは、縮み上がっているのは心臓の方かもしれなかった。

ドッドッドッドッ

薄い胸板をうるさいほどに脈打つ。
耳が熱い。

どうしよう。

口がカラカラに渇く。

このまま目が覚めないか、と思い、MENUの真ん中に書かれている“真夜中秘密倶楽部“の一点を食い入るように見る。同時に、押さえつけた手で腹も抓ってみるが、皮膚が痛むだけで一向に目が覚める気配はない。

どうしよう。
どうしよう。

母さん。

もう何年も会っていない母の顔が思い浮かぶ。


と、ほのかに甘い香りがした。

おまたせしました。

思いのほか近くで声がして視線をうつすと、すぐそばにフクロウが立っていた。
見上げると、改めて大きい。
だが、紛れもなく本物のフクロウだった。着ぐるみだとは、到底思えなかった。
吃驚して言葉も出ないでいると、銀フレームのメガネが、今度こそわずかに乱れた。

フクロウはそんなタダヒコの様子を気にするそぶりも見せず、銀の丸トレーに乗せたカップをソッとテーブルの上に置いた。
白の陶器に黄色のインクで花の絵付けがしてある。
そのカップを、タダヒコは見たことがあった。


・・・


「はい、正彦。気持ちが落ち着くわよ」

タダヒコが祖父に叱られて泣いていると、母はいつもホットミルクを出してくれた。
普段大事にしまってあるカップは、母がそのまた母から譲り受けた大切なカップで、嫁入りの時に持ってきたものの1つだった。
この広い広い立派な一軒家に高価なモノはいくつもあったが、タダヒコは幼心にこれが一番大事なモノなのだろうな、と思っていた。

遠く海の向こうから持ってこられたそのカップは、海外への渡航が今ほど容易でなかった当時、タダヒコの母のそのまた母……つまりは祖母が旅行に行った際に買ってきたものだった。
聞けば祖母は自立心と好奇心が強く、何度も海外へ行くうちに語学が堪能になり通訳の道を選んだ。そうして、しまいには外国人の祖父に出会って結ばれたのだった。

そんな親を持つからだろうか。

「自分の好きなことをしなさい」

いつだってそれが、母の口癖だった。

だが母の言葉とは対照的に、あの家は到底そんなことを許してくれそうにもなかった。父が早逝してからというもの、祖父はタダヒコを跡取りとして厳しく育てた。
世代も価値観もかけ離れた祖父との生活は、タダヒコの胃をいじめ抜いた。
大学進学をきっかけに家を出てからというもの、院生となった現在に至るまで、帰省したことは一度もない。


・・・


実家にあるはずのカップが、なぜここに。
驚きのあまり、夢だということも忘れてしげしげと見る。
しかも、目の前に置かれたのは空のカップではなかった。
たっぷりと注がれた白いミルクが、ホクホクとあたたかな湯気を立てている。
ホットミルクだ。
単なるホットミルクではない。それはまごうことなくかつて母がいれてくれたホットミルクだった。
なぜだかそう、確信する。


事前にあたためられたカップは、なかなか手で持つことができない。
いつもそうだった。母は胃腸の弱いタダヒコを心配して、ホットミルクを出すときはすぐに冷めないようカップをあたためてから用意してくれた。
シャツの袖を伸ばしてから、手に持つ。それは幼い頃にやっていた仕草とまったく同じだった。
飲むのがもったいないような気がして、少しだけ、口に含む。
ミルクの優しさの奥に広がる、ハチミツのまろやかな甘み。鼻腔に抜けていく花の香り。

間違いなかった。


「正彦。自分の好きなことをしなさい。それが人生よ」

穏やかでいてどこか毅然とした声が聞こえた気がした。
タダヒコの繊細な癖っ毛を撫ぜながら、母はいつもそう言ってくれた。 


そうだ、だから自分は、描いているのだ。
ホットミルクをひとくち、またひとくち、と飲むにつれて、次第に描きたい気持ちが強くなっていった。
それは森の中を迷子になっていたときの焦燥感とはまったく違う、純粋で力強い意志だった。


祖父が自分を憎くて厳しく接するわけではないと、ちゃんと分かっていた。
分かっていたが、怖かった。
自分のやりたいことを厳格な祖父に伝えるのが。
それはすなわち、本気であることを意味するからだ。
自分に才能があるかどうかも分からない。
家を継いだ方が、はるかに安定した将来が約束されていることは考えるまでもなかった。
その道を絶ってまで人生を賭ける勇気が自分にあるのか。
その自信がどうしても、ないような気がしていた。


それでも描きたい。


この不思議な場所が、タダヒコにそう思わせた。
それはきっと、ここは少しだけ似ていたからだ。
タダヒコを幾度となく救ってくれたあの世界に。


なぜ自分には父がいないのか、漠然とした寂しさに心が冷たくなったあの日。
祖父の示す”将来“が両肩にあまりにも重くのしかかったあの日。
母の病気が見つかり、母まで失う恐怖に怯えたあの日。
それらすべてをほんの少しの間だけは、安心して忘れることができた。
マンガの中の世界にいる、束の時だけは。


臆病な自分が、マンガの中でだけは勇気ある主人公になることができた。
いつだって正しくあらねばならなかった自分が、マンガの中でだけは、法すら恐れずに生きることができた。
父との思い出に乏しい自分が、マンガの中でだけは、そのぬくもりを感じることができた。


だからタダヒコは、思ったのだ。

厳しい現実を生きる人々がほっと一息つけるような。

そんなマンガを、描きたいと。


最後のひとくちを大事に飲み干し、カップをそっと置く。
今度は盗み見ることなく、店内をゆっくりと、隅々まで見渡した。
マスターはカウンターを丁寧に拭いていた。
店内で静かに流れるジャズには、レコード特有のパチパチとした音が混じっている。
よく見ると、店の奥に蓄音器があった。
ゆるんだ心のまま目を瞑り、そんな心地好いジャズの音を聴いていた。


・・・


目が覚めると、机に突っ伏して寝ていたにも関わらず不思議とスッキリしていた。
なぜか身体がぽかぽかとぬくい。

なんだかとても、良い夢を見ていたような気がする。

普段夢を見ないだけに、覚えていないことが惜しいな、と思った。
目の前の原稿は相変わらず真っ白だったが、いつものような焦燥感はなかった。
むしろ、初めて道具を揃えた時のようにワクワクしていた。
原稿用紙の白さが、今ばかりはなんだか心強かった。


今度こそ、うまくいく。
ぬくい身体に後押しされるように、そんな予感がした。


もしも。
もしもこのマンガが完成したら。
その時は、実家に帰って、ちゃんと話そう。


志新たにしながら、正彦はペンを手に取った。








お気持ちに応じておいしいコーヒーを飲んだり欲しい本を買ったりして日々の"イイ感じ"を増やします。いただいた"イイ感じ"がいつか記事として還元できますように。