見出し画像

あざやかに生き、ゆるやかに褪せ


先々週末、花を買った。
しばらく近所のスーパーで調達していたので電車でちょっと乗ったところのきちんとした“花屋”で買うのはかなり久しぶりだった。


花屋ではいくつかの花や花束に“ドライにも!”というメモが添えてあり、今はこういうアプローチもあるのだなと感心した。これまではドライにできそうな花を勘で選定していたため、助かった。
単品で売っている品々からドライ向けの花々をなんとなく覚えていく。花の名前には詳しくないし覚えられそうもないので、ひとまず姿形を勉強していくのだ。


予算は1000円くらいだったのだが、その価格帯で好みの花束がなかなか見つからなかった。
一瞬妥協しそうになったが予算の制限を外してもう一度くまなく見てみると、魅力的なものが見つかった。結果として予算はオーバーだったが購入を決めた。
面白いもので予算を決めていると予算以上の商品は自動的に目に入らなくなる。我ながら精度の高い“フィルタリング”だなと思うが、価格にこだわって本当に良いモノを見落としてしまうようでは本末転倒だ。出来ることならば価格問わず本当に欲しいモノだけを手に入れて生きていきたいものだ。それが贅沢な暮らしだとは分かっていても。


購入したブーケは中に保水性の良いゼリーが入れてあるらしく、“水替え不要”が売りの品物だった。ズボラなりに切り花の世話をするのは苦でないのだが、物珍しかったので試しに購入してみたのだ。色味や花の状態が一番良かったこともある。
また、ドライにするときしばしば花瓶に挿したまま乾燥させることもあるので、ゼリーならばなおさらちょうどいいか、と思ってみたりもした。



私の部屋は6畳一間にセミダブルのベッドやチェスト、本棚に作業用のローテーブルが所狭しと置いてあるのでヘンテコなレイアウトをしている。普段はベッドと作業用のローテーブルに挟まれるようにしてnoteの執筆などを行っており、花はいつもここに飾る。まだ数は少ないがこれまでドライにしてきた花々もこの机の上に飾っているため、いつかは花に囲まれながら執筆できたら良いな、とは思うのだがそれはまだ当分先になりそうだ。


自宅用には少々豪華なブーケを視界に入れながら、彩りのある生活をしばらくの間楽しんだ。
しかし、4日くらい経ったところで花の香りが生々しくなってきた。
これは花瓶の水換えをしばらくサボっているときのソレである。
水腐れしているな、とは思ったが、ブーケを開けてしまうのが勿体無い気がした。
ラッピングペーパーで保水ゼリーを保っているため、一度開封してしまうとおそらくそれがこのブーケの寿命になるからだ。
悩みながら決心がつかず、それからさらに2日間置いておいた。


相変わらず見た目は元気そうだが、眠っている間にも草花の生々しい香りが漂ってくる。
実質枕元にあるのと同様なので、寝ているあいだ何度も罪悪感に苛まれた。



一週間経って真ん中に挿してあるフリル状の花(会計のときに名前を教えてもらったのだが忘れてしまった)が色褪せてきたのでいよいよ頃合いとして、ブーケを開封した。
案の定中のゼリーは簡易的に包まれているのみで開けた瞬間土砂崩れのように流れ出てきた。また、卓上用として短く切られている花々は花器に移すのにも不適当だった。
そんな花々の状態はというとリボンで束ねられていた部分を中心に水腐れしており、もっと早く決断してあげたら良かったなと後悔した。


手がつけられないものはそのまま処分し、切ればなんとかなりそうなモノは1本1本謝罪しながら手入れした。(植物の手入れをするとき往々にして話しかけてしまう)
そうして残った数本をドライフラワーにしてみることにした。
今回は茎のほうがかなりやられてしまったためどの花もギリギリ萼から上が残っているか、というくらい短くなってしまった。
それでもすぐに乾きそうな花は既存のドライフラワーの花器に差し込み、2輪だけ残ったフリル状の花はハンギングした。


それから気がついたときにちょこちょこ様子を見ているのだが、変化していく花を見るたびに生命を感じる。
フリル状の花はそれまで鮮やかなピンク色をしていたのだが、ハンギングした翌日には一段階褪せていた。時間が経つにつれて数枚、フリルの縁取りがやや茶色けてきて、花が生命力を失っていっていることが見て取れた。
これはドライとして残せないかもな、と思っていたのだが、数日経った今、大半の花びらは状態の良いまま残っているため、命が尽きてなお美しくあろうとする姿に感銘を受けた。
そんなのは人間のエゴが生んだ見方でしかないのは承知ではあるのだが。



十代の頃、一度だけ花道の体験をしたことがある。
そのときに、生き生きとした野性味あふれる花達を自分の裁量で切ってしまうのがなんだか恐ろしく、体験を終えるころには心身ともに消耗しきっていた。
花屋に並ぶそれよりも”生命“生々しい花たちを扱うのは、動物を扱うのと同様に感じられたのだ。どの花も素材として与えられた時点で美しく、それらに手を施さなければならないことになかば泣き出しそうだった。



たしかにあの日、花はあるがままが美しいとは思ったハズなのだが。
あれから十数年経った今、花屋で花を買い、花のある生活を送ろうとしている自分がいる。
どうしても、花々の彩りで安らぎを得ようとする自分がいる。


花の一生は短い。


そんな儚い生き物から支えを得ようとする己はつくづく傲慢だ。
そんな悲観的な考えのもと花を買うのを辞したとしてもそれは綺麗事だしこの世から花はなくならない。
それならばやはり、この儚くも美しい生命たちが私の人生の一部であってほしいのだ。


そばで絶えず褪せていく花々を見ながら、これが生命かと思う。
私自身、この何倍ものスロウなペースでゆるやかに終わりに向かっているにも関わらず。


生とはきっと色鮮やかで、死とは少しずつ褪せていくことなのだ。



人間のエゴで命を失っていく花をかたわらに、今日もそんなことを考える。


お気持ちに応じておいしいコーヒーを飲んだり欲しい本を買ったりして日々の"イイ感じ"を増やします。いただいた"イイ感じ"がいつか記事として還元できますように。