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チロルの不在


チロルが帰ってこないんだ、と瀧川が言う。


昼休憩のことだった。
二人で煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいると、いつもより長めに紫煙を吐き出してから瀧川が言った。


チロルが帰ってこない。


田中は自身の身体の中に芳ばしい香りが充満するのを感じながら、考えた。


チロル、とは誰のことだろう。
あるいは、なんのことだろう。


通常の人であればここで質問できたかもしれない。
しかし田中には人の話を5割程度しか聞いていない自負がある。
そのため、もしかすると過去に自分はチロルについて聞いたことがあるのかもしれないな、と思った。
(実はこの“自負”とこうした“思い込み”が他人の話をよく聞かずに相槌を打ってしまう原因なのだが、それを自身で咎めるほど彼は内省的な性格でもなかった。)


「そうなんだ。もうどのくらい?」

「かれこれ一週間くらいかな」


一週間というのは不在において長いのか短いのか、田中には判断つきかねた。
チロルが動物であればおそらく長い部類に入るのだろう。人であれば短いか、もしくは“妥当“といったところだろうか。
そういえば誘拐された人質は24時間を過ぎると生存確率が著しく下がるらしいな、といつか見た海外ドラマのことを思い出す。確かあれは2枚目な分析官が誘拐された時の話で……


「俺が悪かったのかな」


あのドラマ、シーズン何まで見たっけ……と考えていると、それまで訥々と続いていた瀧川の声が途切れた。何球か見送ったキャッチボールがいよいよ自分の番になったらしい。隣の男は憂いを帯びた表情でうなだれている。おそらく客観的に見れば重苦しい空気の中でたたずむ男2人といった図なのだろうが、瀧川の独白をおおよそ聞き逃した田中は“またやっちゃったな〜”と思いながら沈黙しているだけである。


「戻ってくることはなさそうなん」
「わからない。こうやって考えてみると、俺はチロルのことを何も理解していなかったのかもしれないな」
「……そっか。」


頷いて、短くなった煙草を携帯灰皿にくしゃりと押し込んだ。
そろそろ昼休憩が終わる時間だ。フロアがざわざわし始めて外に出ていた人々が戻ってきたことを知らせる。


それでも瀧川は中々動こうとしない。
きっと何かを待っているのだろう。
そうしてその何かを与えるのは、どうやら田中の役目らしかった。


「瀧川。迎えに行きたいなら探しに行けばいいし、帰ってきてほしいと思うんなら待てばいい」


田中が言うと、瀧川は妙に感心した風になって、「そっか、そうだな」と何度も頷いた。
それからふらりと動き出して、元来た方とは反対側へ軽やかに歩いて行った。
田中は“役目“をなんとか果たせたらしいことに内心で安堵のため息を漏らしながら思った。


便所かな。


午後になってデスクが全部埋まっても、瀧川のデスクだけはぽっかり空いたままだった。
田中はそこで初めて、『あ、もしかしてもう探しに行ったんか』と、思い至った。さすが我が部のエースは行動力が違うな、と妙に感心してしまう。


上司が瀧川を探している。言おうかどうか迷ってから一旦無視していると、しばらくしてから背後に人の立つ気配がした。


「おい、田中。お前よく瀧川と昼とってるよな? どこ行ったか知らないか」


知っていると言えば知っているが、知らないと言えば知らないのだ。それでも何か答えないと上司は立ち去ってくれそうになかった。
仕方がないので正直に「チロルを探しに行ったんだと思います」と答えると、「何をバカなこと言ってんだ、チロルは探すモンじゃないだろ」と、怒られた。理不尽だなあ、と思いながらぼんやり曖昧な表情を浮かべていると、そんな田中がアテにならないと悟ったのか上司はやれやれといった雰囲気でそのまま去っていった。


チロルは探すものじゃないのか。


田中の疑問はますます深まるばかりだ。


そうしてふと、チロルを知らない自分はもう瀧川に会えないかもしれないな、と思った。




けれども彼のことなので、そんなことは帰路のTSUTAYAで例の海外ドラマの続きを探しているうちに忘れてしまう。








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