見出し画像

『デタラメ』について考える


風呂に入りながら、ふと思った。

人は他人のデタラメを見るためにいくらまで払えるのか?
また、はたして人は、いくら受け取ればデタラメをやるのか、と。

しかし、そう思ったことと、この記事、あるいはマガジンとの間に因果関係は全くない。

とにかく、ただただ、デタラメをやりたくなったのである。

300日以上欠かさずnoteを更新してはいるが、もはや日々のそれは脳のエクササイズ、あるいは日常生活の中の習慣でしかない。毎日コンスタントに書き続ける、という最低限のルーティーンがあるため、想定以上に労力を使うようなことや、深すぎる思考、電車に乗り始めの5駅以内に収まらないような記事は極力書かないようにしている。“やった感”が出ると、途端に毎日書くのが億劫になるからだ。

また、それと理由を同じくして1日1本だけ上げる、ということもルーティーン化している。それが故に毎日ある程度の体裁を保って書けている面も大いにある。

デタラメをやる、というのはそれら全てを無視する、ということだ。

書くことは特に決めていないが、盛大な嘘っぱちを書いていきたい。
あるいは、かなり虚構っぽいが、ギリギリ真実らしいことでもよい。

週に何本書くか、月に何本書くかも決めていない。

ただただ、デタラメをやりたいのだ。

そうして、デタラメついでに有料マガジンにもしてみた。

仮にも“有料”として金銭が発生することに対してなんの見通しも立てずに始める、というのはかなりデタラメっぽいではないか。その幸先良いスタートのため、価格もとんでもなく中途半端なモノにしておいた。

もしかするともう2度と更新されないマガジンかもしれない。
1日限りの『デタラメをやった』という達成感のもと、私が満足するかもしれないからだ。

さながらシュレディンガーのデタラメである。

更新ボタンを押しながら、私は考える。

人は他人のデタラメを見るためにいくらまで払えるのか?

はたして人は、いくら受け取ればデタラメをやるのか。



ここから先は

0字

デタラメかつデタラメなデタラメのためのニッキたち。

お気持ちに応じておいしいコーヒーを飲んだり欲しい本を買ったりして日々の"イイ感じ"を増やします。いただいた"イイ感じ"がいつか記事として還元できますように。