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ギャンブル依存症者が感じる苦しみについて。

ギャンブル依存症者が感じてしまう苦しみについて、参考までに書いてみようと思います。

ギャンブル依存症については多くの誤解があって、まあ身近な人にきいてみても、ネット界隈で確認してみても、それなりに誤解が沢山あると思っています。

私自身、それは一般的な感覚からすれば仕方ないと思う一方で、その誤解や理解不足がギャンブル依存症という病気の発見や治療を妨げているとしたら、それは問題だとも考えています。特に、もしも身近な大切な人がギャンブル依存症を疑われる場合は、本人にとっても周りにいる人にとっても大きな壁となってしまうと思うのです。

つまり、ダイレクトに人間性を否定してしまう事だったり、更生への諦めムードにつながる事は想像に難くありません。

依存症の私自身、一人でも多くの依存症が救われるべきだと感じます。
そしてその為には、周りのサポートがとても大切だとも感じます。
そうしたサポートを受けるため、または誤解を解いてもらうために、ギャンブル依存症者が感じている苦しみについて、私の経験から書いてみようと考えました。


私は最近’X’(旧Twitter)をよく見るようになりました。

ギャンブル禁止を掲げるユーザーさんの言葉がめちゃめちゃ励みになるし、ギャンブル依存症について真正面から考え、役立つ情報を発信していたり、中にはYotube活動をしておられる方もいらっしゃいます。
Xについては使い方により良くも悪くもなりそうなものなのですが、こと依存症に悩む人たちのやり取りを見ていると、すごく良い空間に満ち溢れていると感じます。
自分もなるべくネガティブな言葉を投げないよう、なにかとツイートしている次第です。

その中でも冒頭に書いた通り、ギャンブル依存症について誤解や偏見を持つ言葉もそれなりに見かけます。
私自身、理解されなくとも仕方ない、むしろそれが一般的な感覚だと思っていることは既に書きましたが、先日Xにて気になったポストがあったので抜粋してみます。

「ギャンブル依存症について、ものや人といった他者のせいにすると依存する。悪いのはあくまで依存症当事者。とにかく悪いのはあなた。ものや人のせいにしたらいけないよ。」

このポストに、私は心当たりがあります。

「パチンコ台のせいにする、パチンコ屋のせいにする、パチンコ屋の店員のせいにする、周りで打っている人のせいにする、あるいは騎手のせいにする、馬のせいにする」など、例をあげればキリがありません。

むしろ負けた場合の常套句ではないでしょうか。
こうやって他者のせいにすることは、重度の依存症となった私自身、当然ながら何度も経験してきました。
こうした他者のせいにして苛立つ感情は、日に日に強度を増してきます。
特に私の場合は負けが込む状況が続くと、自分自身の感情すらコントロールする事が次第に難しくなってくることになりました。

そうした事を踏まえつつ、私はこのポストをこう解釈しました。

「(いらだちや苦しみを伴いながらも)自分のギャンブル行動を他者のせいにし続ける、だからあなたは依存状態から抜け出せない。だからギャンブルが悪いのではなくて、あなたが悪い。」

たしかに一部、依存症者の姿を現しているのかもしれません。
しかし私は、依存症者の本当の姿を現しているとは思えません。

誰かのせいにしたり、何かのせいにしたり、あるいは社会のせいにしたり、といった事は、ある程度ギャンブルをする人にとって身近な行動だという事は私の実体験からすでに述べました。

ちなみに分かりやすいのが、パチンコ屋さんのGoogle口コミです。八つ当たりともとれるこうした言葉にすぐに触れ合う事ができるでしょう。
そもそも依存症者に限らず、ギャンブルに頻繁に触れ合う多くの人はこうした感情を抱く事は普通のことだと思います。
(基本的には搾取されるのですから当たり前ともいえますが。)

ただ、こうした苛立ちや感情は、ギャンブル依存症者にとってはただの一過性のものに過ぎません。

なぜか?ギャンブル依存症は、強烈な自己嫌悪を繰り返す病気だからです。

「またギャンブルでお金を使ってしまった」
「また時間をお金を無駄にした」
「なんでギャンブルを辞められないのだろう」
「使ってはいけないお金だったのに、何で使ってしまったのだろう」
「本当に自分はクズだ」

最終的にはいつも自分を責めてしまうのです。
自己肯定感と自分の経済的な状況が、同時に悪化し続ける病気です。
こんな自分はもう死ぬしかないとか、もう犯罪でもするしかないといった飛躍した考えに至るケースも十分に許容してしまうかもしれません。

他者のせいにする一過性の感情はさておき、自分自身に苦しみ続けます。
自分の責任だということを痛いくらいに感じているけれど、それでもギャンブルをしてしまいます。

そうした人を目の前にした時、
「人(何か)のせいにしているあなたが悪いのです」なんて言って欲しくないのです。

「ギャンブル依存症は本人の責任か?」という設問に対して、「そう思う」「強くそう思う」の割合がとても高かった、というのはある国民調査の結果です。多くのギャンブル依存症者でさえも、「そう思う」「強くそう思う」にチェックをいれるだろうと私は考えます。

反面、こうしてこうして苦しんでいる事など想像できない程に、ギャンブル依存症者は普通に見えるかもしれません。当たり前ですが、頻繁にギャンブルすること以外は普通の人です。

しかしギャンブルに限れば、

嬉しそうにギャンブルで勝った話をするかもしれません。
あるいは負けた話をするかもしれません。
ギャンブルをするために嘘を付きます。
嘘を付いて、ギャンブル資金をあなたから借りようとするかもしれません。
ギャンブルをする事自体に、実は後ろめたい思いを感じているけれど言いません。
そもそもギャンブルをしている事自体を隠し続ける人がいます。
ギャンブルで作った借金がある事なんて、恥ずかしくて人に言えません。

(もちろん依存症者にも色んなパターンがあると思います。すべてが当てはまるわけではありません)

こうして、依存症者自身が苦しんでいる現実を隠してしまう、嘘を付いてしまうという状況になってしまえば、

「ギャンブルに溺れているなんて情けない」
「そもそも意思が弱い」
「もう放っておけばよい」

こうした感情を抱くのも、いたって普通の感覚だと思います。だからこそ、冒頭に書いたような誤解がたくさん生まれるのだと思います。

でも、もしあなたの近くに依存症者と疑われる方がいらっしゃるのであれば、表面的な部分より先に、少しでも当人へと踏み込んでみて欲しい、という思いが私にはあります。

このポストをされた方のような類の誤解はいったん傍において、
(本当に本当に押しつけがましい事は承知な上です。)ギャンブル行動によってとても苦しんでいる可能性がある事を、少しでも疑ってみて欲しいと思うのです。


これまで述べてきたように、ギャンブル依存症は台や店、騎手に対して苦しむ病気では決してありません。
最終的には自分自身に苦しむ病気なのだと、私は考えています。

借金をしてギャンブルしている姿をみれば、とても信じられないと思います。ギャンブルが大好きな人種なので、どうにも手を付けられないように見えるかもしれません。

もしも大切な人がギャンブル依存症に陥っているのであれば、あなたに見せるその姿は、本当の姿を映しだしているとは私は思いません。
せめて、人格を否定する事だけはやめて欲しいです。

少しでも誤解が解けると同時に、だれかにとって大切な人が一人でも救われて欲しいという思いでこの記事を書きました。

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