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アメリカが好きだった ~その弐

~本稿は、"その壱" からの続きです‥‥

1977年初夏、私は突然「アメリカへ行く!」と宣言して倹約を始めた。依然北関東訛りが抜けない高澤君もいっしょに行くことになった。渡航は一年後の夏休み。目的はもちろん本場のブルーグラスに触れることだった。

私の蓄財は順調に進み、成就の目途がついた頃、高澤君から「オレやっぱ行かねー。」との一抜け宣言。私は当時運転免許を持っていなかったので、アメリカでの移動は彼の運転を頼みにしていた。「あ、そう。」と応えたものの、いきなりの "アメリカ一人旅" にひどく動揺した。

「じゃあオレもやめる。」はカッコ悪過ぎる。「マズい! 何か上手い中止の理由は無いものか‥」だが妙案出ぬままに時間は過ぎ、22才夏の一人旅は決定した。

私が申し込んだのは、まずニューヨークに飛んですぐ解散~1ヶ月後にサンフランシスコに集合~帰国という乱暴なツアーだった。旅行会社から、グレイハウンド (長距離バス) のフリーチケットと、ホリデーインの宿泊クーポン10泊分を買い求めた。※ちなみに、当時の$は200円弱だったと記憶する。その頃の数年で円高に動いてはいたが、今の感覚からすると$は高い。

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※今回 note に書くに際して当時の資料を探したが、どこに片付けたものかどうしても見つからない。唯一在ったのは、万が一の時に足跡が分かるようにと書いていた日記風の赤い手帳のみ。これと Google Map を照合しながら、記憶を頼りに書いていく。

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1978年7月30日、10:30発の JAL ニューヨーク便に搭乗。当時直行はできなかったようで、アンカレッジでワンステップした後、ニューヨークに到着。そこで3日滞在。自由の女神、エンパイヤーステートビル、五番街やセントラルパークを散歩したりと、普通の観光客として過ごす。

東部

8月2日 グレイハウンドで西に向かう。週末にオハイオ州で開催されるブルーグラスのフェスが目的地。まずエリー湖西岸にあるトリード(Toledo)という街を目指す。14:30 ニューヨーク発シカゴ行きに乗車。トリードまでは、ペンシルバニアを横断しクリーブランドを経由して約 860km

8月3日深夜午前1時、クリーブランド(Cleveland)を過ぎた辺りのドライブインで、私一人だけが降ろされる。「ここで待て」と言う。誰もいない暗いドライブインに一人ぼっち。不安過ぎて「来なきゃよかった」と少し泣く。30分ほどすると別のバスがやって来て乗せられる。バスは私一人だけを乗せて、暗いハイウェイを疾走、午前3時にトリードに到着。

目指すフェス会場はトリードから更に、南に70km~西に40km行かねばならない。トリードのバスディーポ(停留所のこと)で夜明けを待ち、南の街フィンレー(Findlay)に到着。バスディーポからホテルを目指しフリーウェイの路肩を歩いていたら、パトカーに乗った警官に職務質問される。事情を説明。乗せてくれるかと期待したが、「気を付けて行け」と言って去る。

目的地のオタワ(Ottawa County)までは、フィンレーから西へあと40kmだが、車以外では行きようが無いと分かる。「た~か~ざ~わ~!」と呪う。オタワは諦め、次週に開催される別のフェスを目標にする。その夜バーに行って未成年に間違われる。

オハイオ

8月4日 フィンレーからコロンバス(Columbus)へ 150km。この街での2日間はほぼ雨。オハイオ州立大学の構内をちょっと覗いたりしただけ。手帳には「この先どうなることやら」と弱音を吐いている。

8月6日 コロンバスからシンシナチ(Cincinnati)へ 168km。バスで隣に座ったイランからの留学生モハメド君のアパートに泊めてもらう。彼の友達の二人のイラン人も合流、ボウリングをしてバーで酒を飲む。バーは怖い雰囲気。部屋に戻って彼らが歌うペルシア民謡らしきものを聞く。アメリカまで来て中東の唄を聞いている自分を不思議に思う。

※モハメド君たちは、親米派のパーレビ国王時代の留学生だった。1978年はホメイニ師らによるイラン革命が既に始まっていて、翌年早々にはパーレビ国王が失脚して国外逃亡。引き続いてアメリカ大使館占拠事件も起こっている。そんな背景下、あの時の彼ら三人は大きな不安を抱えていたと想像する。三人が歌っていた旋律はどこか悲し気だった。

8月7日 シンシナチからレキシントン(Lexington)へ 128km。 ホリデーインに投宿。レストランのランチョンマットに、レキシントン周辺の競走馬牧場のロゴが描かれていて、その中に "Fontainebleau Farm,  Zenya Yoshida" を見つけた。社台の吉田善哉氏だ。ニューヨークを出て以来初めての日本人の痕跡を喜ぶ。翌日はホテルのラウンジでブルーグラスの演奏が聞けた。

※この時から10年後の1988年、レキシントン北20kmのジョージタウンで、TOYOTAケンタッキー工場(TMMK)が操業を開始した。1978年のアメリカで日本車はほぼ走っていなかった。すごく稀にカローラを見かけた時は、愛知県人として誇らしく感じたものだ。

8月9日 レキシントンからルイビル(Louisville)へ 115km。ルイビルのバスディーポで、ブルーグラスフェスがある次の目的地ペンドルトン(Pendleton)への行き方を訊ねる。「バスでは行けない」きっぱりと言われ落胆。「た~か~ざ~わ~!」とごちる。ここも諦めて、次の週はナッシュビルで過ごすことにする。そして、8月19日からレキシントンの南80kmのレンフロバレー(Renfro Valley)で催されるフェスに何としても行くと決意。翌10日はケンタッキーダービーが行われるチャーチルダウンズ競馬場を見学。

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8月11日 ルイビルからナッシュビル(Nashville)へ  275km。ナッシュビルで一週間過ごす。さすがは音楽の都。ビル・モンローをはじめ著名プレイヤーのステージも見られたし、街にいくつもあるライブハウスに毎日出掛け、演奏もさせてもらった。この街には日本人もいて10日ぶりに日本語を話した。

8月18日 早朝ナッシュビルを出発、ルイビル~レキシントンを経由し、16:40 レンフロバレー(Renfro Valley)に到着。移動距離 470km。やっとブルーグラスのフェス会場に来られた。ここマクレインファミリー主催の "ファミリーバンドフェスティバル" は、19日(土)、20(日)の2日間開催される。

到着した日、宿が無くて困っていたら、イギリスから来ていた小学校の先生マイケルさんがテントに泊めてくれた。翌日はゴローショーの酒井君、関大の鏑木君と出会った。このフェスではたくさんの人に親切にしていただいた。有名なバンジョー弾きブッチ・ロビンスのお父さんカルビンさんのキャンピングカーに泊めてもらい、ジャック・ヒックスのお母さんには夕飯をごちそうになった。アメリカの豆の煮物は味が無くて驚いたが。

そしてカルビンさんがバック・ホワイトを紹介してくれた。"Buck White & Down Home Folks" は、父バックと二人の娘さんで編成されるバンドで、私は以前からファンだった。下の画像左の姉シャロンはその後リッキー・スキャッグスの奥さんになる。妹シェリル(真ん中)は可愛かったなあ。

※2000年に公開された ジョージ・クルーニー主演の "オー・ブラザー!" に、 バンドとして 2シーンほど出演していました。

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↓  下はその出演シーン

『オー・ブラザー!』 2000年 オーエン兄弟制作


8月20日のフェス終了後、日本人3人とバック・ホワイト家族とで食事をし、その後我々を車でナッシュビルまで送ってくれた。運転手はブルーグラスボーイズのバンジョー弾きとして、来日公演の経験もあるボブ・ブラックだった。移動距離 345km

8月21日~22日はナッシュビル。"Gruhn Guitar" や "GTR" の楽器店を覗いたり、レコードを買ったりして過ごす。

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バックホワイト名刺

8月23日 飛行機でナッシュビルからロスアンジェルスに移動。L.A. には2日間いたが、手帳には何を食べたかしか書かれていない。カレーライス、焼き魚、味噌汁など。日本食に焦がれていたようだ。

8月25日 グレイハウンドで L.A. からサンフランシスコへ 580km。ここで手帳の記載は終わっている。西海岸に到達して安心したんだろう。

※ニューヨーク出発からの約3週間、バス移動の距離は約 3,200km。これは稚内から那覇よりも長い距離です。

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エピソードも割愛し、背景や人物の説明もかなり端折(はしょ)って書いたのだが、このような長文になってしまいました。古い手帳を見て記憶を呼び起こし、Wikipedia や Google Map で調べながら書いていると、当時の気持ちが甦ってワクワク、ドキドキしてきました。もう43年が経ったとは‥ 以来何故かアメリカには縁が無く、一度も本土に渡ることはありませんでした。多分もう行くことはないでしょう。

かつての部下が現在シカゴに住んでいて、先日LINE の "ビデオ通話" で話をしました。その際、彼の住む高層マンションから見えるミシガン湖を生中継してくれました。あんなに遠かったアメリカがすぐそこに在るような気がして、思わず言いました。「今は未来 ⁈」

【孫たちへ】「じいちゃん22才夏の冒険はどうだったかな。振り返ってみると、じいちゃんの若い時の得意技は、"人に親切にされること" だったかもしれません。たっくんもあおちゃんも優しくて親切な人になって下さい。そして周りから親切にされる人になって下さい。」

< 了 >


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