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ここらへんの史跡をゆく⑥ ~鳥羽

"県民割" を利用して伊勢に出掛けたことは少し前に書いた。目的は美味しい海の幸を食べること。もっと詳しく言うと「蒸しアワビを口いっぱいに頬張って食べること」だった。願いは叶った。

まずお伊勢さん (外宮~内宮) にお参りし、投宿の前に鳥羽城跡に寄った。鳥羽城は1594年、豊臣秀吉の家臣で当時南伊勢を治めていた九鬼嘉隆が築城した。城は徳川時代を通して鳥羽藩の藩庁として続いたが、1854年の地震で建物の大部分が倒壊、その後修理されることなく明治を迎え破却された。

鳥羽城は、大手門が海側に突出して築かれた軍事色の強い海城。九鬼水軍として名を馳せた九鬼氏の本拠に相応しい。本丸は海岸からせり上がる丘の最上部にあった(登ってみた体感と景色から海抜40mほどと推測)。

往時の鳥観図(想像図)
現在周囲はかなり埋め立てされている。かつての敷地内を国道と近鉄線が貫く。

城山の西中腹にある鳥羽市役所の駐車場に車を停め、石段を上り本丸跡に向かう。その時その丘にいたのは多分私たち二人だけだった。梅雨の合間の暑い日だったが緑を抜ける風は静かで心地よく、本丸跡から見晴るかす海はキラキラ光って良い目の滋養だった。

城跡の西、鳥羽市役所の横から延びる石段を上る。
東側の急な斜面にある階段状の石垣。タイトル画像は別アングルからのもの。
本丸跡から東方の海や島々を臨む。

"にわか仕込み" で恐縮だが、鳥羽城を築城した九鬼嘉隆の略歴を書く。志摩国の地頭の家に生まれた嘉隆は、織田信長の伊勢攻めに加勢して、当時その地域を治めていた北畠氏を制圧。その功により、信長から志摩国の領有を認められた。その後、信長の元で水軍として目覚ましい活躍をする。伊勢長島の一向一揆を鎮圧。二度目の木津川口の戦いでは、鉄甲船を駆使して毛利(村上)水軍に快勝、本願寺への海上補給ルートを絶つ。これにより本願寺は抵抗を断念し信長と和睦する。このことは信長の天下統一への画期と言われている。信長亡き後は秀吉に出仕、水軍の頭領として重用され、期待に違わぬ功績を残す。二度の朝鮮出兵にも水軍として参戦した。

九鬼嘉隆(1542~1600)
第二次木津川口の戦いで毛利水軍を破った九鬼水軍の鉄甲船

信長、秀吉が駆け上がっていく過程で、獅子奮迅の働きをした九鬼水軍と九鬼嘉隆だが、戦国史のメインストリームからは少し外れているようだ。その認知度は歴史マニアに限定されている。残念ながら、第二次木津川口の戦いで九鬼水軍に撃破された村上水軍のほうがよく知られている。これは2013年刊行のベストセラー小説「村上海賊の娘」の影響も大きい。

関ケ原の戦いにおいて嘉隆は西軍につき、惣領息子の守隆は東軍に与した。それは結果がどう転ぼうとも、家名を存続させる目論見だった。東の将として功を認められた守隆は、家康に父嘉隆の助命を嘆願し許された。しかしその報が届くのを待たず、嘉隆は故郷志摩の地で自害して果てた。

家名存続が叶った九鬼家であったが、守隆の二人の子が家督争いで揉めに揉めた。見兼ねた江戸幕府は九鬼氏に対して、鳥羽からの移封と分封を命じた。以降九鬼氏は摂津国三田藩と丹後国綾部藩の二家に分かれた。水軍の名門九鬼氏はそんなふうに "海" を手放して陸に上がった。

三田九鬼家と綾部九鬼家は、廃藩置県までそれぞれの領地で存続した。その間両家は養子のやり取りもしている。子孫の代には仲違いは解消していたようだ。幕末は三田藩、綾部藩ともに討幕派として戦ったことで、明治維新以降両家とも、華族に列することができた。何とも "抜け目ない" "目端の利く" 一族であることか。

< 了 >

P.S.  昨年来続けてきた週末の投稿を、先週はスキップしました。"土曜日に記事を書き始め日曜日に投稿" が基本日程なのですが、先週は土曜日がゴルフだった為、金曜日の朝から執筆を開始しました。しかしその日の夕方、安倍元首相が亡くなりました。概ね書き終えていた "下世話な記事" は、そんな折の投稿には相応しくないと考え、見送ることにした次第。書き終えていたのは今日の記事ではありません。もっと "取るに足らない一編" でした。
それもいずれ (多分来週?) 投稿しますが‥

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