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言葉を超えて。

【連載】あれこれと、あーと Vol.7


「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。」

これは、哲学者ヴィトゲンシュタインの言葉だ。私はこの言葉を「思考の限界は自らの言語に起因する」と捉えていて、ゆえに「思考の限界=世界の限界だ」と思う。

Ludwig Josef Johann Wittgenstein

9月、久しぶりにアート/空家 二人を訪問した。このギャラリーが居を構えるのは蒲田駅付近の住宅街。古民家を改築し、現代アートを取り扱っている。

夕暮れ時。靴を脱いでお家に上がると、 玄関先でオーナーの三木さんが温かい笑顔に迎えてくれた。部屋にはずらり作品が展示されていて、目が眩む。民家からアート空間へ。地続きの現実から別世界へと一気にジャンプしたような感覚になる。9と4分の3番線の壁を抜けるような、勉強机の引き出しの中に入るような感じ。毎度のことながら、このギャップがとても面白い。

早速、開催中の「NITO11 new次元への突入」を拝観する。この展覧会では「1万円から作品を販売し、購入によって次回の出展作家が決まる」というコンセプトを掲げていて、なかなかシビアだ。それゆえ、今回も気鋭のアーティスト達による渾身の作品がずらりと展示されていた。

今回はギャラリーツアーに参加したので、アーティストから作品への想いやコンセプトなど直に聞くことができて、楽しかった。その後はアーティスト達とハンバーガーをいただきつつ歓談。不思議に濃密なひと時だった。

前置きが長くなったが、そこで出逢った絵と冒頭に触れた思考と言語の関係性について、幾許か通ずるものを感じたので、そのことについてつらつらと綴ろうと思う。


ファインダーで濾された世界

何かを見たとき、私は瞬時に「これが何か」を認識しようとする。たとえばそれがアートなら、「何を表しているか」「どんな意図があるのか」を探りつつ、全体の構成や描かれたモチーフを拾い、主題や内容を理解しようと試みる。

そうして取り込んだ情報を、わずかばかりの知識と、移ろいがちな感覚と、超個人的解釈で咀嚼し、呑み込むのだ。

私は、こんな風に、物事を見つめている。

しかし情報を拾えない(=認識できない)ものは困ってしまう。(というかその方が圧倒的に多い)アート作品でも、「これ、何??」と困惑するような作品を幾度となく目の当たりにしてきた。その度に自分の知識や感性の乏しさを感じてちょっと焦る。なんとか解釈しようと四苦八苦している様は自分でも滑稽だと思うけど…

いつだってアートは、私の世界を軽々と超えた先に存在している。


意識と無意識のはざまで生まれた、痕跡

©️_ryo_uchida
©️_ryo_uchida
©️_ryo_uchida

※掲載画像はアーティストのInstagramより抜粋、許諾済

内田 涼 UCHIDA Ryo
1989年 静岡県生まれ
2015年 武蔵野美術大学 油絵学科 卒業
2019年「NONIO ART WAVE AWARD 2019」準グランプリ
2020年「KAIKA TOKYO AWARD」入選・作品設置
2020年「シェル美術賞」入選
2021年「はるひ絵画トリエンナーレ」鷲田めるろ審査員賞

内田さんの作品を初めて見た時、全然ダメだった。目の前に迫るキャンバスに、何が描かれているのか、一ミリも理解できないし、突破口が見つからない。思考が停止する。だのに、なぜか目が離せない。

オーナーの三木さんが、鑑賞者達に「この絵についてどう思いますか?」と問う。私は、「どこか生々しくて…肉体的な感じがする」と答えた。けど今思えば、なんとなく一瞬の印象を適当な言葉に落とし込んだだけのような気がする。落とし所を見つけておかないと、この作品たちに思い惑ってしまいそうだった。

壁にかけられた3つの作品は連作で、色が美しかった。蠢いているような、激っているかのような、肉体的な動きを感じる。許されるのであればいつまでも見ていたい気持ちになる不可思議な魅力を感じた。

キャンバス上に描かれた色や形は複数のレイヤーの如く重なっていて、 その一部は、切り取られ、隣のキャンバスに出現している。(ように見える)円形に繰り抜かれたかのようなモチーフ。その下のレイヤーも露わになっている(ように見える)カラーコードのようなものも描かれている。(ように見える)

これはなんなんだ!まるでデジタルツールではないか。はじめてphotoshopやIllustratorに触れた人が、気ままに遊んでみたようだ。意識と無意識が混在しているような美しき混沌。闊達に画面を横断するモチーフたち。鑑賞者の受け取り方など意に解さないかのような軽やかさ

まるでコンテンポラリーのダンスを見ているようだった。

「身体的」という私の突発的なコメントは、もしかしたら当たらずと雖も遠からず、なのかもしれない。作品から作品へモチーフが移っていく様も、絵画という静的な物体に一種の動きを与えていて面白かった。


世界を見つめる、新しいカメラを手に入れた

私の目はレンズ。ファインダー越しに映る世界は、シャッターを切った瞬間に「言語」というフィルターがかかる。脳内であっという間に変換され、編集され、加工される。アウトプットするときには、エフェクトもかかる。

見つめる先の事象は「本当」か?

アートを見るとき、無意識的に言語世界に落とし込もうとしていた私に、内田さんはそうさせまいとするかの如き作品を突きつけてきた。(とはいえ、それもまたこのような形で言語に落とし込んでしまう。文字書き好きの悲しき性である…)

©️_ryo_uchida

今見ている作品が何ものであるか、いっそどうでも良くなってくるし、脳の処理が追いつかない、不規則なダンス。ユニークな世界だ。

果たして、この作品を通して、私は内田さんのレンズから世界を覗いているのだろうか?それとも、内田さんの指先から生み出される規則と不規則性、その痕跡をなぞっているのだろうか?


言葉を奪われる出逢い。そこから世界は広がっていく

言葉と思考に絡め取られた私の世界。それはこれからも変わらないだろう。でも、この作品を見て、まるで新しいカメラを手に入れたかのような喜びを得たことは確かだ。

魅力的な作品と出逢う度、私が形作る小さくて狭い世界の裾野がほんの少しだけ、拡がってゆく。だからアートは面白い。

筆者が運営しているWEBギャラリーです。
「アートをもっと、そばに」がコンセプト。
よければ遊びに来てください。

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