散歩
歩くのが好きだ。
目的が在っても無くても、それはそれほど問題じゃない。
初めて降りた駅の周りを歩くのが特に好き。
もし此処で暮らしていたら、とか想像しながら。
歩くという行為を日常に溶かすのは、とても大切だと思う。
或る夏休み中の早く起きてしまった朝、散歩に出掛けてみた。
いつもの通勤路とは逆の方向にフワリと歩き出す。
もし開いている喫茶店でも在ればモーニングでも食べようか、と。
でも…この御時世じゃ無茶な希望だろうけど。
わざと歩く速度はユックリにして景色を楽しむ。
見覚えの在る建物と、そうではないもの。
横たわる時間を感じながら歩みを続ける。
ふと見た建物、名前に既視感を覚えたので立ち止まった。
それは見慣れない動物病院である。
でも、その名前は確かに記憶に残っていた。
それも、かなり強い印象で。
歩くのを再開してから、その理由についても考えてみる。
暫く歩き続けた先の公園の近くで犬の散歩と出会う。
その嬉しそうな動作に思わずマスクの中で微笑んだ。
そして突然、思い出す。
我が家の歴代の犬達の掛かり付けの病院名だ。
いつも母がタクシーで連れて行くので、もっと遠いと思っていた。
こんな所で、まだ開院してくれてたんだ。
急に足許に何かがじゃれついている様な錯覚がした。
甦る懐かしい感覚、散歩が楽しくなる。
大通りに出たので進むのを止めて帰宅。
改めて飾ってある歴代の犬達の写真を見つめる。
人生での一番の幸運は彼等と暮らせた事だった。
母子家庭で貧しかったけれど心は裕福になれた。
賃貸にも関わらず小動物が飼育出来た我が家。
朝は近所の犬達の散歩で賑わっていた。
歴代で一番一緒に居たのがコテツ。
和犬同士の雑種、中型犬。
産まれた直後に我が家に引き取られてきた。
その事情は、もう覚えていない。
飼い続けられなくなった犬達を母は引き取っていた。
一緒に暮らしてからは犬が生活の中心となる。
母は年中無休で働いていたが、それでも喜んで世話をした。
自分も弟妹も進んで協力する。
家族を一つにまとめてくれたのも彼等だ。
ボクは休日の朝に散歩をした。
コテツは振り返り振り返り進んでいく。
本当に弾む様に歩いていくんだ、と眺めていた。
或る日、手からリードが離れてしまい焦った事が在る。
しまった、と思って追い掛けた。
コテツはリードをぶら下げたまま散歩を続けていく。
ところが突然立ち止まった。
振り返ってボクが後方だと分かったのだろう。
リードを咥えてボクの所に駆け戻ってきたのだ。
ボクはホッとしつつも感心しながら驚いていた。
ボクはコテツにリードを持たされていたのだ。
コテツ自身が、その時ボクを散歩に連れて行っていたのである。
或る日、散歩に連れて出た母が興奮して帰ってきた。
「でっかいハスキーと鉢合わせしちゃってね…。」
母の説明では、こうだった。
散歩の途中の曲がり角、反対側から来た大型犬と一緒になった。
当時、飼育が流行していたシベリアンハスキーである。
もちろん向こうも散歩の途中であり、ただ擦れ違うだけだった。
ところが、そのハスキーは人懐っこい性格だったのだろう。
尻尾を振りながら母に近付いてきたとの事。
もちろんリードは持たれていたので安全ではあるのだが。
そのハスキーと母との間にコテツが立ち塞がったらしい。
自分の倍以上の体格のハスキーと向かい合った。
そして自分の鼻をハスキーの鼻先に付ける。
そこから一歩も退かず母には近付けさせなかったらしい。
少し困ったハスキーは自分からコテツを舐めた。
そして寝転がってお腹を見せたのだ。
母とハスキーの飼い主は顔を見合わせて笑った。
その途端にコテツも尻尾を振りだしたとの事。
番犬と言うより、まるでボディーガード。
母は事あるごとに、その話を聞かせてくれた。
よっぽど嬉しかったのだろう。
ボクは帰宅してからリードを取り出して眺めた。
これだけは取っておきたい想い出の品。
そして見ながら気付いた事が在る。
今日は、お盆だ。
コテツが帰ってきてるのかも知れない。
続けて想い出を辿る。
コテツが体調を崩したのでボクは実家に戻った。
母に世話をして貰う為にである。
寂しがらせない様に世話して欲しかったのだ。
その代わりにボクは休まずに働く事になった。
掛け持ち出来る仕事は全部やったのだ。
病院からコテツが帰ってきた、それは家で最期を迎える為に。
彼は敷かれた布団から這い出て玄関に寝ていた。
まるで最後に誰かを迎えたいかの様に。
独立して家を出ていた妹が見舞いに帰る。
コテツは本当に嬉しそうだった。
待ち望んでいたのは家族全員との再会だったのだ。
その晩に天国へ。
その後、母も体調を崩してしまった。
コテツを追い掛ける様に天国へ。
ボクだけが残されてしまった。
コテツが体調を崩し母をも失くすまでが約二年と少し。
ボクが実家に戻ってから丁度二年が過ぎていた。
実家は賃貸契約で二年間同居してれば契約を相続出来る。
ボクは迷わず相続して想い出を守る事を選択した。
そうでなければ無一文で住居を失う所だったのだ。
医療費と生活費とで貯金は底が見えていた。
救うつもりで実家に戻ったボクが助けられる事になる。
もしかして彼には全てが分かっていたのかも知れない。
リードを眺めながら、そんな事を思った。
コテツが天国に行ってから家族全員が気が付いた。
皆、自分達が飼育して彼を助けていると思っていたのだ。
だけど…守られていたのはボク達の方だった。
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