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‘How many people were there at the party?’ と ‘How many people were at the party?’ の違いとは?
質問
今回質問させていただきたいのは、存在文に関することなのですが、以下の2つのパターンの疑問文(存在文を使ったものと使っていないもの)に、意味の上で、あるいは話者の意識に何かしらの違いがあるのかというところです。
(a) How many people were THERE at the party?
(b) How many people were at the party?
以上の2つのパターンの疑問文が、インターネット上(数学の問題や対話のスクリプト)で見られました。対話では(a)と(b)共に見られ、数学の問題で問う時は(b)しか見られませんでした。
又、『現代英文法事典』(安井 稔 編, p.500)にあるように、“visual impact”の視点*、つまり「パーティにまつわる《具体物》、その時の《周囲の物理的状況》」を想定していると考えた場合に(b)が使われるのだろうかと考えました。
さらに他にもいくつか検索してみましたところ、上記の2文以外にも、“How many people are (there) in the world?” “How many people are (there) in the Congress?”のように、記事の見出しでは、どちらのパターンも使われているのが見られました。
こうなると、もはや筆者のさじ加減(数学の問題的な視点で読者に問いかける or 読者に丁寧に話題を導入する)で表現を使い分けているのではないか?ということは、実は別にどちらを使っても良いのではないか?とも思っています。
先生のご意見をお聞かせいただければ嬉しいです。
補足:visual impactの視点とは
『現代英文法事典』によれば、以下の [c]は、[d]のような文脈を考えてはじめて容認可能となり、そのような文脈がなければ不自然である:
(c) An account book is on the table.
「テーブルの上に会計簿がある。」
(d) We are looking at the picture painted by Jim. A middle-aged man and three boys are seated on cheers or stools at a spindly, square table. An account book is on the table.
「われわれはジムが描いた絵を見ている。中年の男と3人の少年が、細長い四角いテーブルの傍の椅子や腰掛に坐っている。会計簿がテーブルの上に載っている。」
同著では、「ジムの絵という限定された空間の中に、いろいろな具体物が存在しているのである。いわば、われわれ自身がジムの絵の中に登場して、その中の1つ1つのことものに順番に視線を向けていくかのような印象を与える。この『眼前に具体物が視覚化されて展開してゆく感じ』(“visual impact”)が、[c]の容認度にかかわっているといえる。」と解説されている(太字強調はガリレオによる)。
ガリレオ流・回答
「話者/筆者が予め抱いている想定」がポイント
ご質問の中で、ご自身でも鋭い考察を展開されており、考え方の基本的な方向性としては良いところを突いている印象です。また実際、ご質問の最後に書かれていますように、話者/筆者のさじ加減で、どちらを用いても問題ない文脈もあり得ます。
私が (a), (b)のニュアンスの違いを見出すところとしては、話者/筆者が予め抱いている想定がポイントになりますので、まずはそこに焦点を当てて解説していきます。
(a) How many people were there at the party?
(b) How many people were at the party?
まず (b)の方から先に見ていきますと、こちらは「パーティーに参加者が存在していたことは前提としてあり、その人数の情報を求む」という問い方になっています。
基本的に、wh疑問文が用いられる際には、wh語によって問われる内容は話者/筆者にとって(通例)不明であるが、その他の部分は前提となっているという構造が成り立っています:
(e) What did Mary eat?
→ 前提: Mary ate something. (But what was it?)
(f) Who has eaten my cake?
→ 前提: Somebody has eaten my cake. (But who!?)
筑波の院時代に授業で聞いた話なのですが、その話題を出した先生のお知り合いの英語ネイティブの先生は、講義で説明を終えた後に学生に対し ‘Do you have any questions?’ではなく、‘What is your question?’と尋ねられていたとのことです。これは、講義内容の疑問点はしっかり質問して理解を深めてほしいという中で、「講義を聞いて疑問に思っている点や、理解が完全でない箇所があるはずだ。だから、君の質問は何?」のように、「質問がある」ことを(ある意味では勝手に😅)前提とした上で、それを引き出そうとする問い方の工夫という見方ができます。
ですので同じように、(b)の疑問文でも、まず話者の想定の中でパーティーの参加者の存在は前提となっており、その上で相手が人数についての情報を知っていると話者が考えられるだけの何らかの状況・証拠などがある場合に発せられる疑問文と考えると良いでしょう。具体的には、質問の相手が実際にパーティーに参加していた場合はもちろん、主催者側で出席管理を行なっていた人や、あるイベントとしてのパーティーに関するニュースを見聞きした(ことを質問者側も知っている)…などといった場合も想定できます。
『現代英文法辞典』の ‘visual impact’の視点も援用して考察しますと、‘An account book is on the table.’が容認されうる文脈(d)では、会計簿の「存在そのもの」は文脈によって前提とされています。その上で、新たに視線を向けた先の事物は新情報で、話者と聞き手の間で共通認識できない(= theで指せない)ため、文頭でありながら ‘an account book’のように不定冠詞が付く形になっています。
このように考えていくと、(b)が数学の問題文や記事の見出しで多く見られることにも、改めて納得がいくのではないでしょうか?
まず数学の問題文では、出題者が本当に問いたいのは how many~?の疑問文の答えとなる数そのものではなく、相手が問題で指定された計算などの操作を行なった結果、正解となる数を導き出せるかどうか?です。よって、たとえば ‘How many people were at the party?’ であれば、 [X-many people were at the party.] といった、パーティーの参加者の存在はやはり前提となる状況が成立します。
記事の見出しについても:
(g) How many people are in the world?
(h) How many people are in the Congress?
など、いずれの例をとっても、「『存在そのもの』は前提とした上で数を問う」という条件が整っていると言えるでしょう。
存在文:「〇〇のあるあり」
他方、存在文の形をとる (a)については、同じく安井稔先生の著書である『英語とはどんな言語か より深く英語を知るために』(開拓社, p.27)に、存在文の例で、以下のような解説が展開されています:
(i) There is a cat on the roof.
「『屋根の上にネコがいる』ということを丸ごと承認の対象としている」
→「存在の承認」、しいて言えば「屋根の上にネコのあるあり」
太字強調はガリレオによる。
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