取材の中にある希望(石戸諭『ニュースの未来』レビュー)
メディア論はもうたくさん!
紙がディスプレイへと置き換わり、多種多様な情報がフラットに並ぶ現代、メディアやニュースとどのように付き合えばいいかというのは、確かに大問題だ。フェイクニュース、オルタナファクト、ポストトゥルース――ホントとウソの境界が消え去り、いくつもの真実がせめぎ合い、人々は真実に愛想をつかす。
反射と反応、流れ続ける情報を右から左に受け流し、リズムゲーさながらに「いいね!」をタップ。炎上という名の期間限定イベントはしっかりチェック。ニュースなにそれおいしいの?
だとしたら、このタイトル――『ニュースの未来』――は何なんだ。初版に掛けられた帯には「それでも、希望はある!」と書かれている。「希望」?
ページを開くと、「はじめに」にはこう書かれている。
この本が、メディアを論じる類書と一線を画しているのは、筆者が「良いニュース」の作り手となるべく格闘してきた半生が語られているところにある。
ちなみに、筆者は「良いニュース」を「事実に基づき、社会的なイシュー(論点、争点)について、読んだ人に新しい気づきを与え、かつ読まれるものである。」(p.71)と定義している。当たり前のことのように思えるが、果たして自分が最近読んだものの中に、どれだけ「良いニュース」があっただろう、と考えると、その難しさが見えてくるだろう。
このことを語るにあたって、筆者は自身の記事をめぐる、あるエピソードを語っている。それは2016年8月6日にバズフィード日本版に公開された「広島への原爆投下を悔やんだ米兵、哲学者がみつけた『人間の良心』」という記事の話だ。
また、メディアの質的な違いを、その記者の規模から説明しているのも、目から鱗だった。具体的には、朝日新聞が二千人を超える新聞記者を抱えているのに対して、「週刊文春」は「記者32人」、インターネットメディアでは、多くてもニュース専従の記者数は「10人~20人の間」。だから新聞がいい、という話ではなく、そもそもこれらをニュースメディアとして同列に置いて論じること自体が難しいという話だ。
筆者は、自身のキャリアが毎日新聞社から始まったということもあり、新聞の強みや、そこで得られた「取材力」について、詳細に語っている。また、毎日新聞退社後は、「バズフィード」日本版の立ち上げスタッフとして参加したということもあり、ネットメディアの可能性と、それを阻む仕組みにも切り込んでいる。
全体を通じて繰り返し語られているのが、ニュー・ジャーナリズムからの影響だ。筆者はその文体的な特徴を、沢木耕太郎の言葉を借りて「見てきたかのようなホントを書く」(p.55)と語った上で、以下のように説明している。
もちろん、この方法には「根拠が曖昧になる」ことで「ねつ造が生まれやすくなる」という問題がある。しかし、それでも「他の方法では伝え切れないものまで伝える力がある」。それこそが、「物語」の力だ。
だからこそ、筆者は新聞社で身につけた「取材力」を重視する。
ニューズウィーク日本版に掲載された「沖縄ラプソディ」――2019年2月の沖縄県民投票を取材したルポルタージュ――では、賛否双方の当事者に深くかかわりながら、取材を進めている。
本書を2021年8月に刊行した筆者は、続けて11月に二冊のルポルタージュを発表している。一つは、東日本大震災のその後を追った『視えない線を歩く』(講談社)、もう一つは『東京ルポルタージュ 疫病とオリンピックの街で』(毎日新聞出版)である。
あるいは、石戸諭氏のネット記事を読んでみるのもいいかもしれない。バズフィードの記事の他、「沖縄ラプソディ」もその第1章がニューズウィークのサイトで公開されている。そこに描き出された現実の厚みに、何かを感じ取ることができるだろう。
鵜川 龍史(うかわ りゅうじ・国語科)
Photo by Mario Calvo on Unsplash
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