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【久松山・本陣山】「秀吉じいさん」との珍道中

 鳥取市のランドマークといえば久松山(きゅうしょうざん)である。この山に築かれた鳥取城は、天下統一をめざす織田信長が派遣した豊臣秀吉が兵糧攻めを行った舞台になったことでよく知られている。

 戦国時代、鳥取城を守る吉川経家は秀吉に城を包囲される。補給路を断たれ、「鳥取城の渇(かつ)え殺し」と呼ばれる凄惨な苦境に陥った。食糧が底をついた城内では飢えに苦しむ兵士が草木や壁を食べたという。惨状はそれにとどまらない。「餓死し人の屍骸(ししむら)を切食(きりくい)あへり」。つまり、餓死した人間の肉を切断して食べたというのだ。秀吉の伝記『豊鑑』には当時の様子がそう記されているという(和田竜『のぼうの城』)。

 経家は約4カ月の籠城ののち降伏。秀吉の助命の意向に反して自刃して散った。現在、山のふもとには経家の銅像が屹立している。『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(松平定知)によると、経家は肖像画が残っていなかったため、遠縁にあたる五代目三遊亭圓楽の顔をモデルにつくられたという。その経家が「日本(ひのもと)に隠れなき名山」と称した山が久松山である。

吉川経家の像

 秋晴れの2023年10月1日午前10時、JR鳥取駅前で路線バスに乗車。久松公園前で下車する。洋館「仁風閣」(じんぷうかく)の近くにはガイド風の男性2人が立っていた。そのうち1人が、球面の珍しい石垣「天球丸の巻石垣(まきいしがき)」など、城跡の見どころを語ってくれた。

 雑談を終えていよいよ登山スタート。と、思っていたら別の1人が城跡のうんちくを話しながらついてくる。例の巻石垣でお別れかと思っていたが甘かった。本格的な登山道に入っても離れる様子はない。歩くスピードを上げて振り切ろうかとも思ったが、男性はまったく息が上がるそぶりもないので諦める。男性に年齢を聞いたら70代という。しゃべり続けながら平気な顔で急坂を登る姿に脱帽するしかない。

 午前11時に久松山の山頂(263メートル)にたどり着く。天守櫓跡からは鳥取市の市街地が見渡せる。鳥取砂丘がはっきり見え、その先には日本海が広がる。天守櫓跡にはコスモスが咲き乱れている。猛暑の夏が終わり、ようやくやって来た秋の訪れを実感する。

久松山からの景色

 久松山の後は秀吉が本陣を構えた本陣山(251メートル)に向かう。期せずして加わった登山仲間の男性とともに。本陣山の山頂部分は太閤ヶ平(たいこうがなる)とも呼ばれている。「巨大な土塁や空堀が当時のまま残されており、戦闘の際に築かれた臨時的な土の城としては、日本最大級と評価されています」と看板に書かれてあった。午後0時半ごろ、太閤ヶ平に到着。かつてここに秀吉が陣を置いたと考えると感慨深い。

太閤ヶ平。信長を迎え入れるための本陣だったという説も

 あとは下山だがいつの間にか山歩きの主導権は男性に移っていた。地元の人しか知らない下山道を案内するという男性の後を追いかけていく。生殺与奪の権を完全に握られた。そういえば昼食を食べていない。お腹が空いてきたが、男性の足と口は止まらない。脳裏に兵糧攻めという言葉が浮かぶ。男性の顔が秀吉に見えてくる。勝手ながら「秀吉じいさん」と命名させていただく。

 途中、名もなき池を通り過ぎ、谷沿いを下りる。しばらくすると鳥取城内の産土神・長田神社があるエリアに出てくる。名門・県立鳥取西高校の裏手あたりだ。結局最初から最後まで見ず知らずの人との登山となった。振り返れば「秀吉じいさん」の話は興味深くもあった。奇縁に感謝したい。

 「秀吉じいさん」と別れたあとは「兵糧」の補給へ。鳥取駅前にあるピザ店でマルゲリータと照り焼きチキンのピザを食べる。食後は繁華街の中にある「日乃丸温泉」へ。1分と入っていられないほどの熱すぎるお湯。個性の強い「秀吉じいさん」との珍道中の締めにはもってこいの強烈な「あつ湯」だった。

歓楽街にたたずむ温泉銭湯

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