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家の歴史。自分のルーツ探訪_Episode1


ここ数年、地域の文化や歴史と向き合い活動してきたからか、はたまた年齢(33歳)によるものか、妙に自分のルーツが気になってきた。


自分は新潟県長岡市生まれ。割烹屋「富川屋」で生まれた。今も両親が店を切り盛りしている。自分で4代目とは聞いてるけれど、もっと前の先祖はどういった人たちで何をしてきた人たちなのだろう。ふと気になった。

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↑で中心で鉢巻きして棒持ってるのは祖父の栄作(2代目)。これはめちゃいい写真。



昨年、まずやってみたのは菩提寺への問合せ。先祖の情報があるはずと連絡してみたが、予想してなかった返事が。なんと第二次世界大戦の長岡空襲(長岡花火開催のきっかけとなった)により燃えてしまったとのこと。連絡すればあっさり分かるだろうと考えていただけに、さて、どうしようかと思った。

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それから1年。バタバタと月日は過ぎ、今回の2020年9月の連休中、たまたま実家に帰省する用事があったので、短い時間であったができることから調べてみることにした。


これは、これから続く?であろう自分のルーツ探訪の記録である。

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まずは、前提条件も含めて自分が今回のリサーチ前にすでに確認できていた・知っていた事実を整理してみる。

・自分の実家は「富川屋」という割烹・仕出し屋をしている。
・自分は4代目と教えられてきた。栄吉(初代)→栄作(2代目)→栄司(3代目)→岳(4代目)
・明治の長岡市の古地図には富川屋が現住所の近くに掲載されている。
・創業年については、父的には「いつからか分からないが、明治の古地図に掲載されているので明治創業と言って良いだろう」という認識
・栄吉(初代)のさらに先は不明。本家はどこの人?
・長岡の「栃尾(2006年長岡市に編入。かつては栃尾市)」エリアには富川姓が多いらしい



続いて、ざっくり問いと仮説を設定してみた。

問い1:富川家のルーツはどこなのか?
→富川姓が集中する栃尾ではないか?「富川」という苗字自体珍しいので。

問い2:栄吉(初代)はどのようにして分家し、今の場所で「富川屋」を始めたのか?
→栄吉(初代)かそれより前に、栃尾から何らかの理由があって今の場所に引越したのではないか。

問い3:そもそも富川屋はいつから始まったのか?
→まだ分からない。

問い4:「富川」の苗字の由来は何なのか?富の川とは?
→栃尾エリアのいずれかの川か?



書き出してみて改めて思ったが、家のことって全然知らなかったんだな…。ま、ここからがスタートということで。



以上を踏まえつつ、まずは始めてみた。
2020年9月21日の記録。




1. 家系図を書く

まずは近場から、ということで栄司(71歳。3代目)をつかまえてヒアリング。「うちの家系図ってどうなってるんだっけ?」「家系図?えーっと、確か…」と言って書き始めた。

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栄吉(初代)までの流れを書いてもらったが、この先は全然分からないとのこと。ただ、栄吉は60歳ぐらいまで生きて、昭和16年(1941年)に亡くなったとのこと。とすると、栄吉は明治13年(1880年)頃に生まれたとわかる。

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栄吉(初代。写真中央)とその妻・キミ(写真右)の写真は実家に残っていた。栄吉、渋い。明治生まれで昭和初期まで生きた彼は果たしてどんな男だったのだろう。
一方、キミさんは90歳を越える長生きだったそうだ。キミさんの様子を知ってる人はまだ存命しているので、話を聞いてみたい。


なお、栄吉より先の「本家」さんについては、栄司(父。3代目)曰く、現在は宇都宮(!)にいるらしいとのことだった。宇都宮かー。


ちなみに本家さんか分からないが、「宇都宮 富川」と検索したら、「富川洋服店」というのがヒットした!インターネットすごい…。ここが本家さんかは聞いてみないと分からないが、ちょっと連絡してみようと思う。
しかし、情報が進展するスピードが早くて何だか落ち着かない。

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2. 古地図を見る

次に、栄司(父。3代目)が明治の長岡市の地図で富川屋が載っているものがあるぞ、と見せてくれた。この存在は以前から知っていたが、ちゃんと見たことはなかった。

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確かに載っている。明治31年(1898年)。

まず気になったのは、「料理麦蕎 富川屋」。麦蕎が蕎麦(そば)のことだとすると、この時は蕎麦もやっていたこと。

さらに、今と場所が微妙に違うこと。道路の反対側にあったようだ。さらに、現在富川屋がある近くに小さい生活用水?川?が流れていたみたい。

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そして、さらに父が気づいたこととして、明治31年だと栄吉(初代)はまだ18歳ぐらいなので、年齢的に店を始めてない、もしくは働いていたとしても、彼がメインではないはずと言う。確かに。

ということは、割と大事なことだが、栄吉(初代)が富川屋を始める前に、富川屋はすでにあったと推測される。つまり、本家?もしくは別の人が、ここで「料理蕎麦 富川屋」を始めていたのである。これはまずは今回の大きな収穫。この辺、もう少し同じ時代の長岡の街の様子や郷土史の情報を欲しいところだな。



3. 地元の古本屋に行ってみる

続いて、長岡駅周辺にある古本屋にたまたま立ち寄ったところ、長岡や栃尾にまつわるコーナーがあったので見てみた。

前述したように、事前に調べていた時に、栃尾(2006年に長岡市に合併。旧栃尾市。油揚げが有名)に富川姓が多いと言うことを知り、「富川」という苗字が珍しいこともあったので、なんとなくここがルーツなんじゃないかなぁと仮説を抱いていた。

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話が逸れるけど、この大きな河川&平野と山に囲まれた盆地感、遠野に似ているな…。。

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話を戻す。古本屋で見つけたのは『栃尾市の文化財』『栃尾郷大水害誌』。

よっぽど物好きでない限り買わないコアな本ではあるが、こういう郷土史系の本に意外なヒントが隠れているような気がする。

まずは栃尾郷大水害誌から。これは大正15年(1926年)に起きた大雨による水害の記録のようだ。パラパラとページをめくってみると、富川吉右衛門、富川養右衛門という名前を見つけた!勝手に遠い先祖だと思っているが、違うだろうか。

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これは事前リサーチで分かっていたことだが、栃尾の富川家は代々「検断職(けんだんしき)」についていたらしい。wikiによると、検断(けんだん)とは、中世の日本においては警察・治安維持・刑事裁判に関わる行為・権限・職務を総称した語で、罪科と認定された行為について犯人の捜査と追捕(逮捕)、その後の取調と裁判、判決の執行までの一貫したプロセスを指すそうだ。今でいう裁判官みたいなものだろうか。

他にも見つけた中で一番古い情報は、1675年に栃尾の中心的役割の肝煎役に富川伊右衛門がなっていたり、他にも検断から晩年に書家(!)になっていた富川大塊という人物がいたことが分かった。それぞれ深く調べるとして、村の肝煎役になりつつ、検断の役も代々担当する名主的な家だったと想像される。今も富川さんは栃尾にいるようなので、役場や文化課にヒアリングしたいと思う。

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しかし、地元の古本屋でここまで情報が得られるとは…恐るべし。次は王道の図書館や役場へ行こう。


4.  近所の文化財について調べる

リサーチ初日にしてすでに色々な新規情報がありすぎるのだが(調べてこなかったので当たり前か)、歴史好きの父(栄司。3代目)が、今たまたま借りていた本に偶然ヒントを見つけた。

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自分も小さい頃よく遊んでいた、家の近くにある神社「蝋座稲荷」について読んでいると、おやっと思った。この「蝋座」とは蝋座役所(和蝋燭の原料の収蔵場所。当時は蝋燭の需要が多くきちんと管理されていたらしい)のことで、どうやら1739年に栃尾から移ってきた(!)らしい。

これ、富川家が栃尾から移ってきたこととシンクロしないだろうか。仮に、代々栃尾で検断をしてきた富川家が蝋座役所を管理する組織の長などを任命されるなどして、長岡のこの地に栃尾から移ってきたとしたらどうだろう。

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これ説明しやすい流れだけど、どうなだろうなぁ…。
ただ、検断をしていた家が「料理蕎麦」というめちゃ庶民的な仕事をし始めた理由を説明できないといけないけれど、、それも本家じゃなく分家だったからできたと言うこともあるのかな。いずれにせよ、もう少し情報を集めないといけない。


と長々と書いてしまったが、リサーチ初日にして思った以上の収穫があった。ここまでは割とストリート的な情報収集になったので、次は、市役所や図書館など公的なところでマクロ的な情報を集めつつ、栃尾の富川さんたちへのヒアリング、また本家など近い親族へのミクロ的ヒアリングをかけていきたい。

まだ始まったばかりのルーツ探訪。できる範囲で粛々と進めていく。

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