誕生、天照大御神
イザナキ、逃げる
黄泉の国(よみのくに)にて、嫁(イザナミノカミ)から絶賛逃亡中の旦那(イザナキノカミ)でございます。
イザナミ「私に恥をかかせやがって!お前ら!追え!」
と伊邪那美神が仰せになって追わせた手下は、予母都志許売(よもつしこめ)という黄泉の国の恐ろしい女の鬼です。
伊邪那岐神は必死に逃げます。逃げながら黒御縵(くろみかずら)という黒い蔓(つる)の髪飾りをほどき、背後に投げつけました。蔓が勢いよく茂り、ぶどうの実がなりました。鬼たちはその実に食らいつきます。その隙をついて逃げ切ろうとしましたが、鬼たちはまたたく間にブドウを食べつくし、また追いかけてきました。
次に伊邪那岐神は、左右に束ねた髪の右側に刺してあった湯津津間櫛(ゆつつまぐし)という櫛の爪を折って、背後に投げつけました。するとそれはあっという間に筍(たけのこ)になって道を塞ぎました。鬼たちは筍を抜き、次々に食べていきます。その間にさらに逃げ延びて、出口はもう間近となりました。
イザナミ「てめぇら、ぶどうはまだ許したるわ。甘いしな。ただ、たけのこは抜くだけでええやろ!なんで食うねん!」
伊邪那美神は頼りにならない鬼たちに苛立って、自分の屍(しかばね)にへばりついていた八匹の悪い雷神と、千五百もの黄泉の国の軍勢を、伊邪那岐神に差し向けました。そのどれもが悪霊や鬼です。
イザナキ「もうやだー!お前らついてくんなよ!」
伊邪那岐神は十拳剣(とつかのつるぎ)を抜き、後ろ手に振りながら走り、ついに『現世(うつしよ)=現実の世界』と黄泉の国の境界である黄泉比良坂(よもつひらさか)のふもとまで逃げ延びました。
その坂の上り口に一本の桃の木を見つけます。急いで桃の実を三つ取って、追手に投げつけたところ、どういうわけか、悪霊や鬼が勢いを失い、逃げていったのです。
イザナキ(た、助かった〜)
桃の実に命を助けられた伊邪那岐神は、桃の木にこう仰っしゃります。
「私を助けてくれたように、『葦原中国(あしはらなかつのくに)=日本』に住む人々を、同じように助けてやってくれよ!」
そして、桃の木にオオカムズミノミコトという名前を与え、それ以来、桃には邪気(邪鬼)を祓う(はらう)力があるようになります。
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このエピソードは日本の風習の元になっております。『桃』が『鬼』を退治するってことは、、、そう!桃太郎!じゃありません!つまらないことをしてしまいました。桃太郎は陰陽道が関係しているようです。
正解は『節分』です。
節分では豆を投げて鬼を追い払いますね。我々は伊邪那岐神のように桃は投げません。桃なんて投げたら床がえらいことになってしまいます。桃の代わりが豆なんです。ちなみに、桃の代わりに豆が選ばれたのは『魔(ま)を滅(め)する』=『まめ』ということだそうです。
ただ、普通のスーパーの豆だと桃の代わりにはなりません。節分になると神社で豆をいただけます。神前にお供えされた豆に対して、宮司さんが祝詞(のりと)をあげてくださいます。そのときの祝詞をよく聞いてみると、「イザ〜ナキ〜ノ〜カミ〜、、、」や「オオ〜カムズミ〜ノ〜ミコト〜、、、」と聞こえるかもしれません。そうやって『桃の霊力』を宿すことで、豆が桃の代わりになるのです。黄泉比良坂で伊邪那岐神に命じられたとおり、桃の木が我々の助けになるように力を貸してくれるのです。
なので、節分には是非、神社でいただいた豆を投げましょう。そういう神社がお近くにない場合は、思い切って桃を投げましょう。
人の寿命
ついに逃げ切れたと思った伊邪那岐神ですが、最後の最後に、伊邪那美神が、腐り、蛆(うじ)がわいた体を引きずりながら追って来ました。伊邪那岐神は、千人がかりでようやく動かせるという、千引の石(ちびきのいわ)と呼ばれる大岩で黄泉比良坂を塞ぎました。岩石にも邪気の侵入を防ぐ効果があるといわれています。
大岩を挟んで、伊邪那岐神と伊邪那美神は向かい合いました。最初に口を開いたのは、旦那である伊邪那岐神です。
イザナキ「離婚や!!!!」
そう叫び、夫婦離別の呪文である『事戸(ことど)』を述べられると、伊邪那美神は怒りに満ちた声で、
イザナミ「お前が勝手に黄泉の国来て、約束破って私の姿見て、逃げて、ほんで離婚はお前から切り出すんかい!?私の体より、お前の頭のほうがよっぽど蛆(うじ)わいとんちゃうか!離婚するんやったらしたるわい!けどな、これからお前の国の人間を、一日に千人絞め殺すからな!」
それに対して伊邪那岐神は、
イザナキ「なんちゅうこと言うねん!ほなやってみいや!お前がそんなことするんやったら、俺はこれから一日に千五百人の子を生ませる産屋(うぶや)を建てる!そして毎日、千五百人生まれるようにする!」
ついに二柱の神は永遠に決別なさいました。
こうして、現世では一日に必ず千人が死に、千五百人が生まれることとなりました。
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ここまでずっと『神様』しか出てこなかった古事記ですが、この2つのエピソードで初めて『人間』について触れています。
古事記で初めて人間に言及したのは、伊邪那岐神が桃の木に対して「私を助けたように、人々も助けてやってくれよ!」のところです。本文では、
「汝(なれ)、吾(あれ)を助けしが如く、葦原中国(あしはらのなかつくに)に有らゆるうつくしき青人草(あおひとくさ)の、苦しき瀬に落ちて、患(うれ)へ惚(なや)む時に助くべし」
となっていて「うつくしき青草人」が人間です。現実の世界に住む人々を、青々として美しい草木にたとえているんです。
そのあとは、夫婦の決別のシーンです。先に伊邪那美神が「人を千人殺す」というと伊邪那岐神が「ならば人を千五百人生む!」といいます。このときから、人には『寿命』というものが出来たということです。
青々とした草木にたとえることで『生命』を感じさせておいて、そのあとの夫婦喧嘩での『人の死』とのコントラストを演出してるとしたら、古事記ってニクいですよね。
さらに、伊邪那岐神と伊邪那美神の永遠の別れのエピソードは、子どもたちの『質問攻め』にも対応出来るのでは?と思っています。「赤ちゃんてどうやって生まれてくるの?」みたいなやつです。
「なんで人は死んじゃうの?」には「伊邪那美神の呪いだよ。」と答えられますし、「なんで死んだ人には会えないの?」には「伊邪那岐神が千引の石であの世への道を塞いだからだよ。」と答えられます。
ただ、前述した「赤ちゃんはどうやって生まれてくるの?」に関しては、古事記どおりで答えてしまうと、「伊邪那岐神の余計な出っ張りで、伊邪那美神のくぼみを刺し塞いだからだよ。」となってしまうので、そこは臨機応変に対応しなければなりません。
すいません。今日はいらん事を書きすぎて長くなってしまったせいで天照大御神が生まれませんでした。
次回、今度こそ!誕生、天照大御神
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