広島に越してきたばかりの私は呉市の広町を知らなかった
七月の下旬、陽を遮る雲のない快晴な日、私は隠岐の島にある母の実家へ帰省した。そこは電車と船とバスを乗り継いで、移動に半日が潰れるような辺境の土地だ。
数年ぶりに会う祖母は笑顔で私を向かい入れた。噂好きで世話好きな彼女は、私が帰らない数年の間に、何人の親戚がなくなったかを話した。そして「挨拶してきなさい」と言って、すぐに私をお墓へ向かわせた。
川岸での野焼き、サンダルで踏む畦道、蝉の声を貫く狩猟の発砲音。ここの夏は都会より涼しい。私にとっては非日常であるが、自然と共存する人間の日常的な風景が、私の歩く脚を軽くした。
町には寂しい変化が訪れていた。民宿の看板がなくなり、三つあった商店のうちの一つがシャッターを下ろした。手入れのされていない家も散見され、それらの内部は人気のない暗闇で満たされていた。それは、まるでクジラの口腔を覗いているかのような恐ろしさを私に感じさせた。人間の数が減る分、街が荒廃していくのは当然である。
きれいに整備されたお墓で私はお祈りをし、水をかけて想いを込めた。数本の雑草を川へ投げて私は戻った。
祖母の家はオレンジワックスの匂いが漂っていた。今朝方、彼女は外壁にワックスを塗ったようだ。夏の入りに毎年するのだが、今年は梅雨明けが遅く、七月の下旬にまで延びたのだ。
私はその匂いを嗅いで、小学校の床にワックスを掛けたことを思い出した。それに紐づいている当時の思い出を一つ一つ紡いでいくと、ある苦い記憶がよみがえった。それは二度と繰り返したくない経験であると同時に、今の私を作る大切な経験であった。
十年以上も思いださなかったことに戸惑いを感じた。当時、八月六日に近づくと、毎年思い出したのだが、いつの間にか、私の頭から離れていった。仕方なさも感じるが、それと同様に、不甲斐なさも感じる。これ以上、私の記憶からなくなってしまう前に、あの出来事をここに記録しようと思う。
広島の小学校に転校してきたばかりの私は、呉市に広町があることを知らなかった。
ホームに近づいてチンチンと鐘を鳴らす路面電車。港に通じる大通のまばらな交通量。校庭の周りには木々が生い茂り、グラウンドとの境目は雑草で曖昧。曇りになれば通学路にツバメが飛び交い、自転車をこぐ私の背中にぶつかった。小学五年からの三年間、私は広島市の港町で過ごした。
両親は私の転校を不安に思っていたようだが、それは杞憂に終わった。私は始業式の当日にサッカークラブに所属し、一カ月もしないうちに広島弁を話した。転向において苦労をした思い出はない。私は周りに恵まれたのだろう。
そして、あの苦い出来事は、私が広島に来て初めて迎える夏に起きた。
風通しの悪さと人の汗で蒸し風呂のようになった体育館の中で児童は整列させられていた。背で組んだ手を捻って遊ぶ者、放心状態で前の肩を眺める者、各々に校長の話が終わるのを待った。私は床に落ちた汗を上履で踏んで伸ばしていた。これが終われば夏休みであると高揚していた。しかし、児童には夏休みを迎えるための大仕事があった。
児童は教室の床にワックスを塗らなければならない。いつもより丹念に掃き掃除をし、先生の厳しいチェックを受ける。それに合格すれば、事務員がオレンジワックスの一斗缶を教室に持って来るのだ。
クラスのリーダーが手慣れた様子でワックスをバケツへ移した。トクトクと注がれるその液体は、何か油の汚らしさをオレンジの香りで誤魔化したような匂いであった。ワックスに浸され、雫が垂れるモップも乾いた床に塗りたくられるとすぐに水気を失った。私たちは塗りムラができないように何度も教室を往復した。
乾ききらずワックスの残る床はよく滑った。先生がいない隙をみて私たちは遊んだ。床に寝そべり壁を蹴り、ロケットのようにして飛ぶのだ。誰が一番遠くまで滑るのか勝負であった。制服の白いポロシャツが黄ばみ、気味の悪いオレンジの臭さが浸みこんでも、気にする子供はいなかった。その遊びはすぐに訪れる教師の叱咤で幕を下ろす。
片手には授業で育てている稲穂の花瓶、もう一方にお道具箱やら教科書が入った布の手提げバックを持ち、そして背中にはプリント類で蓋が閉まらずパンパンに張れたランドセルを背負う。その帰路は苦行であるが、置き勉の付けである。
広島の学校では、年に数回、長期休暇を利用して原子爆弾で被爆した人による講和があった。被爆者の方が十人ほど学校に訪れるのだ。当時、戦後から六十年ほどであるので、全員がお年寄りであった。児童は五六人のグループに別れて、その一人から息遣いの聞こえるほど近い距離で聴く。彼らは原爆や空襲を鮮明に語り、その悲惨さを後世に語り継ぐのだ。
ワックスの光る綺麗な床の上でその講話は行われた。私のグループを担当するおばあさんは、体験を詳細に書いた冊子を用意していた。それを配り読み上げるスタイルは、対話というよりは授業である。彼女はしきりにため息をつき、休憩するように間を置く。壁の扇風機が彼女の持つ冊子を煽り音を鳴らした。時間が経つにつれて、彼女の顔から表情が消えていった。私は真面目にしなければならないとわかっていたが、集中が切れて、文字を追いきれなくなっていた。そして時折、おばあさんは無表情で宙を見つめた。それが余計に私の眠気を誘った。
彼女は当時十九歳で乳飲み子がいた。原爆が投下される日の朝、彼女は母に赤ん坊を預けて呉市の広町にある紡績工場に働きに向かっていた。その列車の中で紫色の閃光を見たのだ。市内できのこ雲がモクモクと立ち、異常なことが起きたとすぐに気づいた。家に戻ろうとしたが、街一面が焼け野原で家の場所がどこか判然としなかった。市街地に近い彼女の家がなくなったことは明白だった。結局、母と娘の遺体も見つからずに、行方不明のようだ。疎開から帰ってきた弟たちを見て、彼女は泣き崩れたようだ。
彼女は『ヒロ』としきりに言った。広島へ越してきたばかりの私は呉市の広町を知らず、昔の人は広島市のことを『ヒロ』と呼ぶのだろうと勝手に解釈してしまっていた。それを調べたり、尋ねたりする積極性もなかった。
その年の八月六日の八時十五分、私はテレビを観ながら黙祷をした。
私は夏休みをサッカーに費やして、宿題が手つかずであった。講和を基に原爆についての新聞を作る宿題も同様であった。登校初日の朝方にようやく終えた。乱雑であるので、広町のことを広島市と間違えて書いていた。
新学期が始まり数週間後におばあさんから担任へ手紙が送られた。担任は放課後に私たちのグループを呼び出してその手紙を読んだ。その旨は、宿題である原爆についての新聞を見て失望したとのことだった。冊子を作り丁寧に話しても正確に伝わらないのだから、もう講和には参加しないと書かれていた。担任は私たちをかばったが、私には思い当るふしがあるので居心地が悪かった。
机の奥でしわくちゃくちゃになった冊子には呉市の広町と書かれていた。
私はその後三年間広島に住み、講話を何度か聴いた。そのすべてを真剣に取り組んだ。被爆者から伺った内容は断片的ではあるが今でも覚えている。あのおばあさんがいなければ、今日まで覚えていることもなかったかもしれない。そう考えると、あの情けない経験もよかったと言えるかもしれない。
私が大人になってあのおばあさんが無表情になる理由がわかった。おばあさんはあの悲劇を思い出すたびに魂をすり減らしていた。原爆投下直後の惨状を説明するということは、その当時の自分の気持ちを思い返すことに繋がる。六十年以上も前のことだけれど、その記憶は今でも彼女を蝕んでいる。世界で唯一の被爆国なのだから語り継ぐのは義務だと他人は言うが、あの恐ろしく悲しい体験を何度も繰り返し思い出すあの個人の苦痛は計り知れないのだ。
今年の夏に私はあの情けなさを思い出せた。苦い思い出だけれど、少し安心した。
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