自然主義と資本主義とインターネットドラッグによって歯車と化した人類を人間に戻すには倫理観を血管に注入することかもしれない
『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)で有名なマルクスガブリエル氏へのインタビューを基に刊行された『世界史の針が巻き戻るとき-「新しい実在論」は世界をどう見ているか』(PHP新書)を読んだ。
哲学者でも専門家でもない私の書評に期待されているのは有用性や読みやすさについて、つまり主にメタ的な書評だろう。しかし、だからと言ってそれでは私の個性が表れず、味のないガムのようになってしまう。なので、この本を通して私が理解したこと、考えたことも書こうと思う。
この本はロングインタビューを編集する形で刊行された。
マルクス・ガブリエルの哲学の証明ではなく、現代社会の問題点を彼の哲学で読み解き解決策を提示するという作りになっている。
彼の思想には彼の哲学が入っており、解釈が難しいところもあるが、その都度説明があるので、完全な理解とは言えないまでも、私なりの考えを持ち読み通すことができた。事実を網羅的に知ることが前提であるが、倫理的に明白な事実を印籠のように根拠として使う様は、嘘とイメージが幅を効かせる現代では、人間らしく暖かい気持ちになる。平易な文体と新書で薄いというのも読み切れた大きな要因であるだろう。しかし、簡単さがゆえに読者の疑問に答えてくれない時がある。
具体的な例を挙げれば、
他の人の尊厳を減らす人は、自分自身の尊厳も減らしている
という文章がある。まるで、子供に倫理を教えるかのような説明だ。
物足りなくも感じるが、それによって私が理解できている部分もあるので、一概には否定できない。とりわけ初心者や忙しい人でも、彼の哲学である新しい実在論の一端を味わえる一冊になっている。
以下、マルクス・ガブリエルの言う新しい実在論について私の解釈を説明する。
新しい実在論では世界が存在しない
私たちが世界という言葉を口にするとき、それはあらゆるものの全てを含んだ世界を意味している。
具体的に言えば、
世界とはあなたと私やそれを囲う社会だけでなく、私の今朝見た夢や、ブラジル人の子供がペンを落とした時の音、アボリジニのため息の分子や土星の輪っかなどを含んでいる。
それらは互いに関係するものもあれば、全く関わらないものもある。それを世界という言葉で雑多に包んでいる。しかし、新しい実在論では、それを区別する。
同一の観点や同一単位、同一の桁という指標が共通している一つの世界を意味の場と言う。
そして、この世界はその意味の場の集合である。
全てを包摂するような単一の世界という意味の場はなく、作ることもできない。
同じ視点は同じ世界、異なる視点は異なる世界である
私を通してみる世界は存在するし、あなたを通してみる世界も存在する
私が新幹線から観た富士山とあなたがどこかで観た富士山が異なる姿をしていることに異論はないだろう。また、あなたが新幹線で観たとしても、同じ見え方をしていない。なぜなら、私は寝ぼけてぼやけていたからだ。私の観たぼやけた富士山も存在するし、あなたの観た富士山も存在する。
富士山を知覚できるとすれば、富士山は同じ意味の場にいる
富士山を視認できる場合、私と富士山が同じ意味の場にいることを疑う人はいないだろう。しかし、私たちの知覚は時折騙されたり間違いを犯したりする。澄んだ湖面に映る逆さまの富士山も当然のように私たちの目に飛び込んできて、遠くの富士山はホログラムと言われれば確認のすべもない。どちらにしても、富士山を模した何かがあるということだ。知覚しているのなら、それはどこかに存在する何かを捉えている。なので、私たちはその何かをより深く知ることができるといえる。
共通の要素があれば、同じ意味の場に入れられる
例えば、綿毛と絹を比較するとしたら、肌触りや重さ、仕立てる際の人件費など多くの意味で重なる。しかし、綿毛と空気を比較する場合、共通の指標が少ないため困難である。
同じ意味の場に所属しているということは共通の要素を持っていることを意味する。もちろん、ある人の観点という指標を作れば、その人を通して物質も空想も同じ意味の場に入れられなくはない。
私は原子の集合でない
科学的に考えるとそれは逆だろう。私の身体を引きちぎって電子顕微鏡で見れば、原子が明確に映るはずである。しかし、私が皮膚や爪によって構成されていることは体感できるが、上記の事実は体感できない。私が私の皮膚と同様に私の原子を認知可能というには少しひねくれている。
つまり、電子顕微鏡を使った私の目と、裸眼では見える世界が異なっている。桁が違いすぎると同じ意味の場にいない。
ありとあらゆる物や想像を雑に詰め込まれた違和感だらけの世界という箱を捨てて、新しい実在論により新たな世界を定義する。世界は意味の場の集合であり、今、あらゆる物事を包摂した単一の世界はなくなった。
この本は、国家や国民が戦前の混沌とした倫理観に巻き戻っている原因を暴き、哲学者マルクス・ガブリエル流の解決策を提示する。
以下の5つの危機を中心として話は展開される。
価値の危機
民主主義の危機
資本主義の危機
テクノロジーの危機
表象の危機
彼の視点は私には新鮮で、読み終わった頃にはいくつも自省すべき点が見つかった。特に、移民や難民を非人間化することで-自分とは別の生き物としてみることで-相手の顔が見えなくなり、善意も悪意も躊躇がなくなってしまうという話は心に刺さった。というのも私の生活においてもそのようなことを行っていたからだ。
外国人に優しくしてしまうのは非人間化しているから
京都に住んでいると度々、外国人観光客が困っている姿を見かける。彼らが日本人であれば、大丈夫だろうと放っておくのだが、外国人の場合は手を貸さなくてはならない気持ちに駆られるのだ。困っている人は何人であれ困っているので、外国人も日本人も関係ないはずだ。しかし、私は外国人に対して特別に優しく接していた。
善意であるので問題にはならないが、私は外国人に対して差別的な態度をとっていた。私の態度は、2015年の移民を歓迎するドイツと同じである。そういった差別的な考えは、現在のドイツのように、相手が私に不利益を被るような際には排斥などの悪意に基づく行為をしてしまう。
自分の心にもある種の違和感を持っていたので、悪意に基づく行為をする前に気づけてよかったと思う。
非人間化の話だけ紹介したが、そのほかにも考えさせられる部分は多く、この本を早めに読めてよかったと思う。
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