清少納言に関する誤解

来年の大河ドラマは清少納言の役をファーストサマーウイカさんが演じることが決まったそうです。
清少納言というと機知に富んだ受け答えで相手をやり込めたりするパフォーマンスだけが独り歩きして勝ち気で高慢な知識人女性みたいに思われたりしてます。

しかし誤解されているけど清少納言は勝ち気な女性ではなくて単純に藤原道長一派から定子を守るためにああいうパフォーマンスしていただけでしょう。

西遊記、水滸伝や三国志などシナ古典ではリーダーを意図的に無能っぽく描く伝統的作劇手法がとられます。

厳密に言えばワザと弱く無能に設定するのではなくて中国知識人の常識というか、伝統的思想が為せる作劇手法なんですけど。


組織や集団の運営がうまくいくかどうかは中心人物(リーダー、領袖)の能力に負うところが大きいです。

そして中国では中心人物に求められる能力の中では「徳」が最も重要と考えられていました。

中心人物の「徳」が強ければ、その「徳」に引き寄せられて、有能の士、豪傑など文武両面或いは文か武のどちらかに秀でた人材が雲霞の如く集まる。だから強力な集団が形勢されるという理屈です。


劉備(三国志)、三蔵法師(西遊記)、劉邦(史記)、宋江(水滸伝)の物語も、序盤から中盤にかけては、彼等の「徳」に、様々な能力を持った才人、豪傑(物語によっては怪人や妖怪も)が引き寄せられ、集結していく様子がメインテーマとなっていますね。


それにより”あのひとの周りには、あんなに凄い人物が揃っている”=“あのひとは物凄い徳のある人物なんだ”と読者に思わせることができるという図式なわけです。


策士や豪傑は、素晴らしい策略や武勇を描けば読者に、その凄味を理解してもらえます。

現代で言えばテストで5教科500点満点を取るとか、100メートルを8秒代で走れるなんていうのがそれにあたるでしょうか。


こういう「凄さ」とか「能力の高さ」というのは「素点」とか「タイム」みたいに「数値化・計量化可能な基準」があるから誰でも判定できるんですね。


しかし「徳」を具体的に文章化したり数値化したりするのは抽象的・概念的過ぎ至難の業です。具体的に見ている側に理解してもらうのはほとんど不可能と言って良いでしょう。

だから、物凄い策士や豪傑、或いはテストで500点満点とれる秀才や100メートルを8秒代で走れる超人にひれ伏させることで、間接的に中心人物の「徳」の高さを示すわけです。

まあ、それが「中国古典の共通テクニック」といえば、そういうことになるでしょうか。

今回のケースにひきつけて敷衍すると平安時代、女性としては異例なくらいシナ古典の造詣が深かった清少納言は「枕草子」の中で自分がいかに教養や知識が豊富で機知に富んだやりとりができるかを嫌みなくらい書いて見せていますが、あれも自分の能力を自慢したかったわけではなくて「こんなにスゴい能力の高い私を部下にしている中宮定子さまは、もっとスゴい徳の持ち主なのよ!」と藤原道長一派に見せつけているわけですね。中国古典から引用したテクニックだと考えてまず間違いないでしょう。

清少納言というと機知に富んだ受け答えで相手をやり込めたりするパフォーマンスだけが独り歩きして勝ち気で高慢な知識人女性みたいに思われたりしてますが彼女は決して勝ち気な女性ではなくて、単純に藤原道長一派から定子を守るためにああいうパフォーマンスしていただけでしょう。


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