書くという嘘【終末京大生日記57】

 昨日、「書くこと」は「遺すこと」だという話をしたばかりだが、今回は書くことを別の側面からとらえて話をしていきたいと思う。

 私が以前から考えていることではあるが、何かを書くとき、人は何を書くかを選択しながら文字に起こしていく。「これは書いたほうがいいな」とか、「この出来事は恥ずかしいから書かなくていいかな」とかあるいは「この言い方だとあまりよくないから、こっちのほうの表現にしておこうかな」などといった感じである。その際に、人は自然と自分を実態以上によく見せがちである。

 それを一番実感したのは私が大学生のころだ。大学生に限らず、人間とは愚かなもので、二股かけてるやつもいたり、やたらと嫌なことを言ったりしてしまうものである。誰にでもあることだが、下手に文章を書くサークルに入ってしまうと、文章というアウトプットのもとになっているインプットの部分や、インプットとアウトプットを媒介する、その文章の書き手の人となりもよく見えてしまうのである。

 私は以前から、創作物の作者や、制作に携わっている人のことをあまり知りたいとは思わない。スマブラの生みの親である任天堂の桜井さんなどは、毎回わくわくさせるような発表をしてくださるので、個人的に好きだが、プライベートの部分までは知るのは少し怖い。

 それは、創作物に対して私がきれいだと思ったことが、作り手の人となりを見て、ぶち壊されてしまうのが怖いからだ。先ほども書いた通り、創作物とは、作り手が実際にあった出来事や感じたことをもとに、こうなったらいいな、こうだったらうれしいなという思いを反映していることが多いため、実際の作者の人生よりもずいぶんきれいに描かれることが多い。

 大学で思った例を挙げる。例えば私は純粋な子供のきれいな話を読む。そこで私は近くにいる作者を見て、物語の舞台は多分こいつが高校生の時の話だろうな、思春期の思い出がベースだろうな。そこで私は思う。「この物語の中では、主人公は豊かな感性を持つ純粋な少女として描かれているが、実際のこいつはもっと人の特徴をあげつらって卑しく笑うようなところがあるけどな。」と。さらにそこで私は思う。「おそらく過去のあいつが主人公のモデルだろうが、きれいなところだけ書いていて気持ち悪いな。」と。

 このようにして、私は、知り合いの書く文が、自分たちの都合のいい部分だけを切り合わせた偏向報道であるように感じ、全く読めなくなってしまう。

 しかし、今まで述べたことと矛盾しているように思うかもしれないが、きれいな部分だけを切り取ったり、自分の理想的な部分だけを抽出することは面白い作品を作るうえで必要なのだ。大学の同級生に作家をやっている人がいた。彼は男子高出身だったが、彼の書く青春小説は女性も登場する。「彼は男子高出身なのに、彼の書く小説には女性がいる・・・」などと、意地悪な顔で意地悪なことを言う女子もいたが、それで面白い小説ができるのならいいじゃないか。

 話をさらに飛躍させよう。そもそも、創作物というのは「ああなったらいいな」とか「こうだったら面白いな」とか、ホラーやディストピア系だと「こうだったら怖いな」とか、感情を大きく揺らすために、現実と離れた物語を描くものだ。それがラブコメだったり、エロ系だったり、性別にかかわるものだと、「あの人あんな体験したことないのにプププw」なんて言われてしまうかもしれないが、それが面白ければよいではないか。

 つらつら書きつづったが、つまり私が何を言いたいかというと、小説は事実とは異なる願望や妄想を書きつづったものであり、願望や妄想ゆえ、キモくなることもある。特に、作者を知ってしまうと、作者の持つ現実と作者の持つ妄想の乖離が強く意識され、なおさら気持ち悪く感じることがある。これを踏まえたうえで、私は創作物の作者には近づきたくはないと思ったということである。

 やはり理系なので、まとまりのない文は耐えられない。最後はきれいにまとめてこそ、人に読んでもらう文だよね。

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