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【福沢諭吉こぼれ話①】福澤諭吉ご母堂の葬儀と股引尻端折(ももひきしりっぱしょり)

小室正紀

 二〇一三年、慶應義塾福澤研究センターの所員の方々と共に、『近代日本と福澤諭吉』という福澤諭吉研究の入門書を上梓した。その「はじめに」の中で読者に向けて、「本書の内容を十分に理解していただいた上で、さらに進んで、〈はたしてこれが福沢の思想なのだろうか〉と疑問を持ち、自ら福沢の著作を手にとって考えていただきたい」と書いた。
 この「考えていただきたい」には、実は二つの意味をこめていた。一つは、福澤先生の著作を資料として分析し研究することに取りかかってもらいたいということで、いわば研究者を目指す方へ向けた提言だった。それに対して、もう一つは、読書を教養として楽しむ方に対してで、そのような人々にも先生の著作を手に取っていただきたいという希望であった。
 研究することと教養として楽しむことは、密接に関係しており分けがたい面はあるが、もちろん異なる部分もある。研究では、あくまでも資料(証拠)に基づいて実証できる限りのことしか言えない。ところが教養としては資料を読みながら自由に想像の翼を拡げることができるし、それが醍醐味だ。
 特に、福澤先生に関しては、その楽しみが大きい。そもそも先生の生涯は、大塩平八郎の乱の直前から日清戦争後までの時代に重なり、ご自身がその人生を「至極変化の多い賑やかな夢でした」(『福翁自伝』)と語っている通り、激動の時代の中にあって興味が尽きない。しかも先生は、膨大な著作や書簡を残し、また先生についての同時代の関連情報も多い。このように資料が多いということは、もちろん研究課題も多くなるが、想像を刺激される種も豊かだということである。
 そのような想像の種の中で、筆者は以前から、福澤先生ご母堂の葬儀についての波多野承五郎の思い出話が気になっている。波多野は、新聞記者・外務官僚・実業家として活躍し、交詢社理事や慶應義塾評議員会議長も務めた。この波多野が慶應義塾の塾生であった明治七年に、先生の母上が亡くなった。波多野は、葬儀を慶應義塾の二階の窓から見ていたが、その様子を、後年、次のように思い出している。
 「其葬式のとき、先生は黄八丈の着物にパッチを穿(は)き尻端折(しりっぱしょり)で、一太郎捨次郎両令息を両手に引かれて、棺の後について行かれました。これは先生が其頃旧来の習慣形式をいかに無視してゐられたかをよく物語るものであります。」(『福澤諭吉伝』第四巻)
 おそらく当時の先生の立場であれば、葬儀には紋付(もんつき)・袴(はかま)が当たり前だろう。ところが、先生は「黄八丈の着物にパッチを穿き尻端折」であった。これはいかにも不思議だ。波多野は、それを「旧来の習慣形式をいかに無視してゐられたかをよく物語るもの」と解釈した。いうなれば、旧習に対する先生の「掃除破壊」(「掃除破壊と建置経営」『福澤諭吉全集』二十巻)の姿勢を象徴するものと受け取っている。
 しかし、筆者はむしろ、逝ける母への想いがこもった姿であったような気がしている。先生の母上は、下士の未亡人として苦労を重ねて五人の子供を育てた。その母の葬儀に際して、下士の生活の苦労と誇りを象徴するものとして、股引(ももひき)尻端折の姿で先生は臨みたかったのだと考えたい。
 福澤家の家禄は十三石余であり、その収入は、やっと自立できるかできないかの貧しい「五反百姓」と同程度であった。農民とは違い、武士としての格式や教育のための支出が必要であることを考えれば、家計はさらに厳しく、当然、内職をしなければ生活が成り立たない。このような下士の苦しい経済状況は、明治十年に福澤先生が書き残した「旧藩情」にも詳しい。また『福翁自伝』によれば、「貧士族」であった青少年時代の先生は、米搗きなど様々な家事や荒仕事に身体を動かし、また内職で、下駄を作り刀剣の細工をしたという。
 しかも先生は後年に至っても、身体を使って働くことを知っているという点で、下士の出身に誇りを持っていたようだ。そのことは、実業家として活躍した高橋達の談話からもわかる。明治十一年頃のことと思われるが、塾生時代の高橋が、ある時、先生から米搗きの腕を試された。二十石の貧乏士族の出身で少年の時から米を搗いていた高橋が、その腕前を見せると、先生は、士族も五百石以上は駄目だが、「二十石の士族とは頼もしい、必ず世話をしてやろう」と言われたという(『福澤諭吉伝』巻四)。ここには、労働を知っている下士という階級への信頼があり、それは自らの出身に対する自負とも重なっていたはずである。
 服装に話を戻すと、この家事や内職の時の男の姿は、おそらく働きやすい股引尻端折りがしばしばであったに違いない。ただ、ここで引っかかるのは「黄八丈の着物」という点だ。黄八丈は、当時は現代のように高価な品ではなかったとしても、絹織物であり内職の時の作業着ではない。では、なぜ黄八丈だったのか。母親の葬儀だから、せめて絹物にしたかったということも考えられる。しかし、ここではもう少し想像をたくましくしたい。
 先生の母親は、福澤家と同格の十三石二人扶持の下士の娘であり、娘時代も福澤家に嫁いでからも、おそらく機織りの内職は欠かせなかったはずである。そこで織っていたのは、職人技が必要な細糸を使ったツヤのある布ではなく、手紬のような糸を使った副業向きの布ではなかったろうか。黄八丈は、母親が織っていたそうした布の風合いを感じさせるものであったからこそ、葬儀の着物となったと考えてみたい。
 ところで、福澤先生の奥様は、福澤家とは全く家格が違う二百五十石取りの中津藩江戸詰上士の家の出であった。幕末激動の時代でなければ福澤家などに嫁ぐ方ではなく、当然、お嬢様として娘時代から内職などしたことは無かっただろう。母親と妻と二人の女性の非常に異なった生涯を引き比べて、先生の想いは複雑であったはずだ。その想いにつけても、下士の妻として苦労を重ねた母親の死に際して、下士の日常と誇りを象徴する姿で葬送をしたかったに違いない。そう考えると、「両令息を両手に引かれて、棺の後について行かれました」という先生の姿には、旧習打破の前向きの姿勢よりは、自分の妻子でも理解しがたい複雑な想いを懐いた先生の寂しさを感じる。
 とはいえ、以上は筆者の想像である。研究者としての筆者は、この想像を実証して見たいとは思うが、これは福澤先生の心の中のことであり、おそらくそれは難しいだろう。しかし、教養として先生に関する資料を読む時には、その想像は自由でよい。
 冒頭に述べた『近代日本と福澤諭吉』は、いろいろな分野の専門家がそれぞれの視角から福澤先生に光を当てた本で、まずは先生の多面的な活動について知ることができるものである。本書をきっかけに福澤先生への興味を深め、さらに進んで是非とも先生の著作を直接手にとって、想像の翼を拡げることも楽しんでいただければと思っている。

*(注)このエッセーは、『交詢雑誌』五八八号(二〇一四年五月)に掲載した「福澤先生ご母堂の葬儀と股引尻端折」に、ごくわずかの加筆を行ったものである。なお、筆者は研究書では「福沢諭吉」と敬称をつけずに記述するのを常としているが、交詢社では、福沢諭吉を「福澤先生」と呼ぶのを常としている。このエッセーは交詢社社員へ向けたものであるため、その伝統を尊重し「福沢先生」あるいは「先生」を用いた。

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