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公司派我去中国学中文 / え?アメリカじゃないの?

gōng sī pài wǒ qù zhōng guó xué zhōng wén
公司派我去中国学中文 (会社の派遣で中国語を勉強しました)

人生思うようには運ばない。

「留学してみたい」。
最初にそう思ったのは中学生の頃だった。高校になったら1年休学してアメリカでホームステイして英語を話せるようになるのだ、妄想していた。

だから中学の頃からNHKのラジオ講座やFEN(Far East Network;今はAFN American Forces Network)、文化放送の「百万人の英語」を聞き、ハイディ矢野、JBハリス、鳥飼久美子、國広正雄など各先生の放送を聞いたことを覚えている。

家族に対して「俺は行くんだモード」を醸し出していたのだ。だが高校に入ったその日に父が亡くなり、留学妄想はいとも簡単に潰えた。それでも高校時代、引き続きラジオ講座は聞いていたし、英語だけはなぜか塾に通っていた。
(とても厳しいおばあちゃん先生だった)

アメリカ留学など全く忘れて社会人になった2年目、営業所の先輩が、本社に留学制度があることを教えてくれた。海外派遣員制度、なんか、かっこよかった。派遣先はニューヨーク、パリ、北京の三都市。年に5名の狭き門。チャレンジしてみるしかないね。若い時は無謀なのがいい。派遣先にかかわらずTOEICを受験する。英語から遠ざかっていたこともあるが当時600点台後半だったと記憶している。当時として悪くはない。そして次は面接だ。

面接官:「んー、行くとしたら北京だけどどうする?」
私:「・・・・・」(え゛?ニューヨークぢゃないの?)

どーん!

家財道具一式ではないけれど、大荷物を持って北京国際空港に降り立ったのは「1989年」の爪痕残る1990年8月下旬だった。

当時空港では国際便が到着するたび、出迎えの人が手書きの旅行者氏名を持ってずらりと並んでいた。殴り書きのローマ字や達筆過ぎる漢字。どれも読みやすいとは言い難いが、北京事務所の運転手の張さんが私の名を書いた紙を持っていた。意思疎通は全くできなかったことは言うまでもない。

それから、大学受験さながら漢字にまみれる学習(地獄漢語)が始まった。

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