言葉を失うドキュメンタリー映画
普段は滅多に映画館に行くことはないが、知人から教えてもらい、これだけは観たいと思っていた映画『荒野に希望の灯をともす』──。先日、時間を作って観にいった。
アフガニスタンとパキスタンで35年にわたって病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた医師・中村哲さんの足跡を追ったドキュメンタリー映画である。
映画の紹介文には次のようにある。
「戦火の中で病を治し、井戸を掘り、用水路を建設した。なぜ医者が井戸を掘り、用水路を建設したのか? そして中村は何を考え、何を目指したのか?」
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随分以前のことだが、忘れられないニュースがある。
故・筑紫哲也の「ニュース23」の映像。
アメリカ(ブッシュJr.)が開始したイラク戦争(2003~2011年)を筑紫さんが現地取材したときの映像。
イラクのメソポタミア平野は、チグリス川とユーフラテス川によって形成された沖積平野。上流から流れてくる細かな砂が下流に流れてくる。その細かな砂を固めたブロック作りを仕事にする人達が多い。
ニュース映像では、そんな親子(父と男の子)が筑紫さんの取材に応じていた。
日がな一日、親子は砂まみれになってブロックを作っている。その男の子(おそらく、日本の小学校でいえば4~5年生くらいに見えた)に筑紫さんが取材の最後に聞く。
「世界に対して言いたいことはある?」
その子は答えた。
「世界中の、僕と同じくらいの子どもたちが、ブロックづくりから解放されるといいな」
その横で、父は感情の読み取れない茫洋とした表情をしていた。
その子は、世界中の自分と同じ年齢の子が、自分と同じように、砂にまみれてブロックを作っていると思っている。そして、みんながこういう状態から解放されるといいと言う。
しかしある国の子どもたちは、ハンバーガーとフライドポテトを食べながら、でっかいコカコーラを飲んでいる。
砂にまみれたその男の子の「世界の子どもが……」というけなげな願いが痛ましくて、ニュースを見ながら私は涙がとまらなかった。
その時、私はもう一つのことを考えていた。
その子がもう少し大人になった時に、ある大人がその子にこう言う。
「世界には、お前と同じ歳で、全然違う生活をしている奴がいるんだ。おかしいと思わないか」
イスラム原理主義は、こうやって子供をリクルートする。その子は「そうなのか……」と思うだろう。そこに武器を手渡されたら、幼いテロリストが誕生する。
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中村哲さんの著書の中の次の言葉が、上記の映画の中で紹介されていた。
「世界の不条理に一矢、報いたい」
この言葉に、私は中村さんの静かで、激しい怒りを感じた。
しかし、中村さんの方法は、暴力によるものではなかった。
暴力による復讐でもなく、報復でもない。
でも、不条理に一矢、報いる。
復讐や報復が暗い情熱の言葉なら、「報いる」には、報恩という言葉もあるとおり、光が差している。
しかし何によって報いるのか?
これは私の想像だが、中村さんなら「喜びによって不条理な世界に一矢、報いるんだ」と言うのかもしれない。
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独学で土木工学を学び、用水路の建設にとりかかる医師。
用水路の水源となる巨大な河があり、用水路の流れを作るべくそこに巨岩を投げ入れても、まるで小石のように激流が押し流してしまう。
それをじっと見ている中村さん。悲嘆に暮れるのでもなく、頭を抱えるのでもない。
ただ、じっと見ている。
その表情を見ていると、どれだけ絶望してきたのかと思いたくなる。
絶望を重ねてきた人間の力。
絶望を、では、次にどうするかという、希望が到来する行為に転じる力。
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用水路ができ、大旱魃で砂漠化していた大地に緑が戻り、人々が戻ってくる。学び舎もでき、そこに集う子どもたちの映像が流れる。
真剣な顔。大きな黒い瞳。その子供たちの眼に映っているのは何なのだろうか。
国語や算数の何かが書かれた黒板を見ながら、その子供たちの中で動いているのはどんな経験なのか。
一方、アフガンとイラクでは様々に事情は異なるが、上記のように、ブロックを作っていたその手で、銃を取ることになった子どもたちがいる。
どちらも、けなげだ。
でも、前者の子どもが鷲掴みする未来と、後者の子どもを待ち受ける未来は異なる。
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中村さんには、10歳で夭逝した次男がいた。
いろんな声もあったらしい。
アフガンの人間ではなく、あなた自身の子どもをどうにかできないのか。
次男は10年の生涯を生き抜いた。
中村さんもアフガンの地で凶弾に斃れた。
親子であっても、別々の生。
しかしそれぞれの生が閉じられた時、もしかしたら十分な関わりがなかったのかもしれない二つの生が、どこかで響きあうように感じられた。
お前も俺も、お互いに、命がある限りよく生きたよな、と。
お互いに確かめあうことはできないけれど、離れていた生が、これでよかったんだと、肯定される。
でも、誰が肯定するのか。何が肯定するのか。
それが運命ということなのかとも思えた。
私にはまだわからない。しかしもし「大いなるもの」というものがあるのなら、その肯定を人間に約束するものであってほしい。
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「もしこの荒漠とした大地に緑が戻るなら、神を信じてもいい」
中村さんはそう言っていた。
「平和は理念ではなく、現実の力だ」とも。
中村さんは、理念や信仰を、地べたを這いずり回る生活で実践した。
若い頃から宮沢賢治と内村鑑三とキリストに惹かれていたという。
与えられた命を限界まで使い切ることを教えられた映画だった。
(文責:いつ(まで)も哲学している K さん)
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