文体と実際のイメージの乖離について

皆様ごきげんよう。

今日は個人が書く文章イメージと、それを書いた個人の現実におけるイメージのギャップについて書いてみたいと思う。

これを読んでいる読者の皆様はこんな経験はないだろうか。「本や雑誌で読んだときは怖そうな印象だったのに、実際に書き手にあってみると優しくて温厚な人だった」とか逆に「文の上では優しい人だと思っていたのに、実際に会ったらとんでもなく気難しい人だった」とか。

私は何度もこのような経験をしたことがある。特に大学で働く教授の方々や講師の方々の書く学術的な文章においてはそれが常であるように思う。例えばお堅い論文であったり、学術的な書籍においては一種の「圧」が感じられる。恐らくこれは学術的な文章において「ですます調」では書かず、「~である。」だとか「~と思われる。」など一種の言い切りの形をとるからだと私は考える。

かく言う私の書く文章も学術的でもないのにも関わらず、似たような書き方をしているため、読者の皆様も「これを書いている人は怖いに違いない」と思うかもしれない。しかし、現実の私はというと未だに「かいけつゾロリ」や「グレッグのダメ日記」といった子供じみたものが好きな「奇人変人」の類の人間であり、意図的に人を怖がらせようとしない限りは、おとなしい人間だと自負している。

反対にゲームセンターに貼ってある子供向けの張り紙やゴルフ場の求人広告ではとても朗らかな文章や易しい語調で書かれているのにも関わらず、実際にそれを書いた人間は大柄なくまのような体格をして、その上で語り口も高圧的であったりもする。

これらのことから何が言えるのか。私は一つの仮説を立ててみた。

その仮説とは、「文章に反映される語調とは心の中における自分自身への語り掛けの形と一致する」というものである。具体的に説明すると、自身に対して厳しく、規律を重んじる人はそのストイック性が文章にも表れる。反対に自分に対してそこまで厳しくなく、規範意識の低い人はそれが文章に現れる。といったようなものである。

なぜそのように考えたかと言うと、書いた文章を一番最初に目にするのは間違いなく自分であるため、ある種文章を書いて言語化するという行為は自身との対話の側面を持つと考えたからだ。

このことを踏まえると、そもそも誰かに対して書いている文章であっても実際には自分に対して書いている文章であるため、それが他者とのコミュニケーションにおける人物像と異なるのは自然のことなのかもしれないと思った。

とりとめのない話になってしまったが、皆さんはどう考えるだろうか。



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