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反橋

大阪に行くのは5年ぶり。新大阪駅から地下鉄を乗り継いで降り立つと、なんばの道路では、若者が至るところで自転車の二人乗りをしている。
二人乗りは、たしかに10代の頃は身近なものだった、という記憶も喚起されたが、東京では全くお目にかからないものだから、長らく存在自体を忘れていた。

街行く人々の、言葉のイントネーションの違いは、土着性を強く感じさせるし、化粧の仕方も普段目にするものとは違う。
土地によっての違いを鮮烈に体感するのは久々だった。

ホテルにつくと、受付の男性は気さくで、私のファーストネームを「いい名前ですね」などと言った。国内旅行はよくしているが、こんなことを聞かれたのは初めてだ。

翌朝、かねてから行きたかった住吉大社を訪れた。
川端康成「反橋」で、語り手の行平が七五三の幼い記憶をたどる。
住吉大社の反橋のまえで、行平は、急な傾斜の階段をこわがっている。
手を繋いでいる母親は、のぼりきったら「お話」を聞かせてあげるという。
「お話」のすきな行平が意を決してのぼったとき、聞かされたのは、彼女が産みの母親ではないという事実だった。

「可哀想なお話?」
「ええ、可哀想な、悲しい悲しいお話。」
川端康成「反橋」(『反橋・しぐれ・たまゆら』講談社文芸文庫)

亡き者への追憶を、心の震えが乗り移ったかのような文体で語るこの短編を、私は物理的な冷たさすら感じながら好んでいた。

いま、100年以上たった住吉の反橋を訪れると、着物をきた親子が七五三参りをしてきて、反橋で写真を撮っていた。

「一歩前に」とか「左に寄って」とかいう母親の声は、まさしく大阪弁だった。私はこの伝統が続いていることに思わず感慨にふけった。

反橋は、大人になった私はもちろん、5歳や3歳の子どもにとってもなんら恐ろしいものではなく、誰一人登るのを躊躇している人はいなかった。

神社の構内には、遣唐使の出発地になった旨が書かれたパネルがあり、修学旅行などでは決して興味を持てなかった歴史的背景が、今の方が心に響いてくるのだ。


何事も人間の生きる年数を越えて受け継がれたものに感動する。
しかしこれは、そういうものにばかり感動して、そういうものにしか感動しないような気もする。

「反橋」にも、ちょうど同じことが書かれている。しかも、現在は失われてしまって跡形もないものにも、行平の思索は飛ぶ。


美術品、ことに古美術を見ておりますと、これをれを見ている時の自分だけがこの生につながっているような思いがいたします。(中略)
美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言うまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失って来た多くのもの、現在は失われている多くのものを知るのでありますが、それを見ているあいだは過去へ失った人間の生命がよみがえって自分のうちに流れるような思いもいたします。
同上

今から100年後、我々は生きておらず、それどころか我々の多くは忘れ去られていて、それでも川端や住吉大社の反橋は残っているだろう。

そうして、感情の終着駅はいつも同じ場所だ。

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