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令和五年のボブ・ディラン・エクスペリエンス



令和五年(2023年)四月十五日、私は初めてボブ・ディランのライブに行き、彼と同じ空間で彼を見て、彼の歌声を聴いた。
3年前にもチケットを買っていたのだが、コロナの流行によって中止となったのだった。

この体験は、当初私が予想していたよりも、現時点での感慨は深くはないのだが、このあと時間が経てば経つほど、私の人生においてこの体験の持つ意味が大きくなるだろう、とも思っている。

ディランの声を初めて聴いたのは、中1か中2の英語の授業だった。
月ごとに古い洋楽を授業のはじめに聴く習慣があったのだ。我々は配られた対訳の歌詞を見ながら、英語の発声に親しむ。
曲はビートルズやカーペンターズが多かったのだが、ある月、「ウィー・アー・ザ・ワールド」だった。
これはオールスターという感じで、クラスでも人気があったと記憶している。
さまざまな歌手がいい声で歌っていくが、私が最も印象深かったのがディランのソロだった。唯一無二、稲妻が空をつんざくようといようか、とにかくディランとしかいいようのない声をしていた。
はじめは彼がディランとは知らなかった。
しかし、調べたらすぐに分かった。しかも、ロックの歴史の中でも最重要人物と目されていること、その声にも高い評価があることが分かった。
私は知らずに聴いて感銘を受けた自分の感性が世間の評価と同じであることに好感をもった。

それからまずは入門編のベストアルバム、『ブロンド・オン・ブロンド』、『欲望』という順番に聴いていった。村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』などに当時親しんでいて、それも思春期の田舎の少年がディランを神格化させるのを後押しした感じだ。

というのも私は文学を広く読もうとしていて、英語圏の重要な詩人と、彼の歌詞を同じくらい知らなければいけないものだと考えていた。

その頃から10年以上、折に触れて知らない曲が知ってる曲に変わりながら、彼の曲に親しんできたのだった。
それは音楽にとどまらず、『ボブ・ディラン自伝』や『ダウン・ザ・ハイウェイ ボブディランの生涯』の読書、ディランのノンフィクション映画『ノー・ディレクション・ホーム』と『ドント・ルック・バック』、そしてディランが音楽を担当し、俳優としても出演している『ビリー・ザ・キッド』を見るなど、多岐に渡っていた。

しかし今回の来日公演で採用された曲は、ほとんどが最新アルバムの収録曲なのだった。
アルバムを引っ提げたツアーなのだから、ある程度はわかる。しかし、それは半分くらいにしておいて、半分は誰もが知ってる名曲をやる、というのが、どのアーティストもたいてい採用しているやり方だろうと思う。
当然のように「風に吹かれて」も「ライク・ア・ローリングストーン」も歌われなかったのだ。
ある意味では、ひねくれてるとも言える。
また、常に前を向いて作品を発表している姿勢は、アーティストとして理想的なことだとも言える。
私は最近の彼の仕事を追えていなかった。本来、今の作品のファンが、聴きに行くべきなのだ。

「マスターピース」や「我が道を行く」は、今回のセトリの中で、珍しく、何度も聴いたことのある曲だったが、これも近年のディランの代表的特徴だが、アレンジがすごくてあんまりピンとこなかった。歌詞は聞き覚えがあるのだが、メロディがまるきり違う感じだ。

ただし声はよく出ていた。若返ったような声だった。そのことに私はライブ中感動していたし、帰りの電車の隣の席に座ったおじさんも連れのおばさんにそう言っていたのだが、私はトリックに気づいてしまった。

行ってよかったと思ったのは、最後の曲でハーモニカを吹いてくれたことである。
聴けないかもしれないと思っていたので、嬉しかった。しかし、その音があまりに大きくて、耳が痛かった。
それで気づいた。ディランの声が出ているというより、マイクの音量がデカかっただけじゃないのか?と。
だからといって楽しめた気持がなくなるわけではないけれど、トリックには違いない。仮に私がそこで歌ったって声は出ていることになるだろう。
しかし、17曲ぶっとおし、しかもピアノを弾きながら立ちっぱなしで、なおかつ昨日も明日もそれをやるというのだから、パワフルな81歳には違いない。何が彼を駆り立てるのだろうかと不思議でならない。
ところで、今ディランは81歳なのだが、前の記事でも言及した大江健三郎の講演を聞いたのも、彼がちょうど81歳の時だったからびっくりした。この二つの体験の間には6年余りの歳月が流れているわけだが、ディランと大江は学生の頃に最もその仕事ぶりに影響を受けた、好きだった人物の二人だし、なにより、彼らはどちらも、時代によって進化を続け、変遷を続け、後世に影響を与えてきた人物だ。そしてそれとともに、過去の偉大な音楽の系譜や文学の歴史を些細に学び、敬意を示し、自らの創作に生かし、それぞれのジャンルを発展させてきた人物だ。
だから、特に才能もないはずの自分が、大江にもディランにも会えたことは、やはり大きな意味を持っているに違いない。自分が81歳になった時のことは想像できないが、そうなる2076年は何があっても必ず訪れるのだ。
(あるいはもう死んでいるかもしれないが、その時にまでこの文章が残っていたら、どんなに駄文でも感慨深いに違いない…)

本公演で1番盛り上がったのは、バディ・ホリーの「ノット・フェイド・アウェイ」をカバーした時だった。
家に帰ったあと彼女の夏葉(仮名)にこのことを話すと、「カバー曲が1番盛り上がるってどうなの?」と言っていた。確かに。

さて、その時の会場の盛り上がりから、私は有名な曲なんだろうと思ったが、知らなかった。
だからそのノリについていけないことがショックだったというか、とにかく残念だった。もっといろんな曲を普段から聴いておきたいものだと思った。
私はディランの有名な曲のアレンジなんだと思って、必死に歌詞を聴き取ろうとしていたが、その割にはポップすぎるような気もしていた。
その時後ろの席のおじさんが、「分かんねえんだよな、コピーだとは思うだけど」と連れにつぶやいたのが耳に入り、なるほどあとで調べないとと思った。
確かに前日はかつて一緒にライブしたりしていたバンド、グレイトフル・デッドの曲をカバーしていたようだから、その類いに違いないのだった。
曲自体はシンプルな感じで、元気で、とても好感を持った。
「ノット・フェイド・アウェイ」が終わった後、拍手が大きく、スタンディングオベーションをしている人もいた。

もちろん、スタンディングオベーションは最後のハーモニカの曲「エヴリィ・グレイン・オブ・サンド」が1番大きかった。
それはアンコールを兼ねていた。
そして当然のごとく、ディランたちがアンコールに応えることはなかった。さすがだ。

そしていま私の耳には、「偽預言者」のイントロが、強く残っている。

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