今日の記念──早稲田、西村賢太、講談社
今朝、私は午前九時より少し前に家を出た。
休日に午前中から出かけることができるのは運がいい。
たいていは夜更かしをして起きるのは昼を過ぎてから。しかも今年からは夜勤が追加されて、うまい具合に昼夜逆転を直すのも難しい。
しかし例外的にうまくいった今回は、他に何の予定も入っておらず、心置きなく古書店を巡ることができる。
秋晴れなのか冬晴れなのか、ともかくここ数日は天候に恵まれている。朝に着ているダウンジャケットを、日中は手に持つことになりそうなのは気がひけるが、それ以外はバッチグーだ。
はじめは神保町に行こうと思っていた。神保町および吉祥寺が、自分の知っている古本屋街で、いつも大体同じ店を回っていく。
ただ一二ヶ月前にも行った神保町にまた行くのは「慊い」ので、どうしようかと思い、早稲田に行ってみることにした。
一体に私は早稲田大学には格別の憧れがあり、それは『ノルウェイの森』の聖地でもあり、堀江敏幸の職場でもあり、一流私立大学でもある。
就職とともに上京した当時は、四年遅れの早稲田生を疑似体験するような暮らしをしていたように思う。西武線沿線に住み、高田馬場で飲んだり食べたりする。
東京だと下宿したとしても学校まで電車通いになってしまうのは大変そうだ、と思いながら。
さて、九時に最寄駅にきたとて、古書店はまだ開いていないはずだ。
ひとまずドトールに入って珈琲を注文し、読書を始めた。
西村賢太『雨滴は続く』。
さきほど「慊い」などとあえて書いたのは、無論彼の著作の影響である。
この作品は貫多の文芸誌デビュー後を描いている。「権威主義の文学オタクである女子供」に否定的な言説が作中多数登場するが、私の感覚では、この作品こそ、バカな男どもを気持ちよくさせるために書かれたサービス精神旺盛な娯楽的読み物だ。
『雨滴は続く』とはとてもいい響きだが、この雨滴は原稿用紙に刻まれる手書きの文字のインクをさすようだ。
私は最終回を先に読み、今回も後回りして最後を読んでいるから、それを知っている。とても印象的で素晴らしいと思う。
なぜ最終回を読んでいるかというと、この作品は未完で、絶筆だからだ。つまり作者はこの作品を完結させることなく亡くなった。
それは2022年の2月、赤羽で乗ったタクシー内でのことだ。
私は当時ニュースで知り、石原慎太郎の訃報に続いてと驚いたものだが、当時は『苦役列車』と『暗渠の宿』しか読んでおらず、その二冊はどちらも大好きということもなかったから、衝撃度が大きかったわけではない。
しかし今思い返せば、私は当時赤羽にあるオフィスに勤務していたから、目と鼻の先に西村賢太がいたということになる。
さて、その後1時間ばかり読書して早稲田に向かったのだが、なぜ早稲田が導きだされたかというと、ちょうど去年の今時分、堀江敏幸のトークショーを見に行った際、「串田孫一の著作を早稲田の古書店で買った」という発言がぼんやり頭に残っていたからである。
どうやら早稲田は神保町の次くらいに有名な古書店街だそうだが、行ったことはなかったと思い込んでいた。
その記憶が誤りだったと気づいたのは明治通りに出たくらいで、いったいに家系ラーメンや二郎系ラーメンのにおいが漂うこの通りの、以前はあったブックオフで、私は『ユリシーズ』の一巻を買い、しかもそのことをnoteに書いた。
2019年の2月だ。
この日はこのあと偶然漱石山房を発見した。
また当時よくTwitterで見ていた古書ソオダ水に行こうとして、行けなかった。
さて、やはりダウンジャケットを胸の前に抱える格好で、いくつかの古書店を覗いていった。
阿部和重のサイン本など発見したが、買うに至らず。
ある店では中年女性が高齢の店主におそらく辞書かなにかの在庫を訊ねていた。
その話しぶりがあまり要領が得難い感じで、店主も丁寧に接客していたが、最後には今度の即売会で見かけたら電話をするから、名前と電話番号を書いてくれ、という話に落ち着いた。
私は書棚を見ているふりをしながら盗み聞きしていて、微笑ましく、外出した甲斐があったものだと思った。
その後キャンパスすぐそばの古書ソオダ水まで行き、狭い階段を上ると本日はちゃんと営業していた。
入り口から森内俊雄の単行本が100円で売られていて、この将棋の永世名人に似た名前の作家の評判は聞いていたから、即決で買うことにした。
あとは後藤明生『スケープゴート』と、桐山襲『風のクロニクル』。
桐山襲は国書刊行会から作品が出ているが、高額で初読で買うにはハードルが高い。
三冊を購入したが、いずれもこれまでの古書店やブックオフ通いで見かけたことなど一度もない商品だった。
つまり、古書ソオダ水は(自分にとって)良い店だ。
これらの作品が自分にとって良い作品かは、当然読まないと分からない。しかし、本を買うという喜びは、それとは別個に存在している。
その後マップを見ながら歩いていると、やはり将棋の名人戦で第1局に使用される由緒正しきホテル椿山荘がすぐそばにあることを知った。森内俊雄→森内俊之→名人戦→ホテル椿山荘は、なかば無理矢理の関連づけだが、こういうことはまあ起こりうる。
そのそばには日本有数の大出版社、講談社がある。
これにはちょっと恐れ入った。
というのも、『雨滴は続く』には、貫多が講談社を訪れる場面が何度か描かれているのである。
近代文学の一部の私小説を溺愛している貫多は、その頃から『群像』を出版している講談社にも格別の思い入れがある。
現在および作中の現在である2005年には、その当時の純文学界のおもかげはどこにもないが、ともかくも歴史と伝統の場所である。
私は今日初めて講談社の前を通った。
ちょうどお昼どきで、講談社の社員かは分からないが、コンビニで何か買った社会人がたくさん歩いていた。
もし講談社の編集者が昼ごはんにコンビニで買ったカップ麺を食べているとしたら、貫多がいうように、彼らも勉強ができるだけの一介のサラリーマンにすぎないのだなというふうに思った。
私はもう文芸誌になんの思い入れもなく、また思い入れや野心を抱くような年齢でもないと本気で思っているし、実際に作家というのは、やはり読者へのサービスを提供するビジネスマンであらねばならないわけだから、いつまでも呑気で無責任な客でいたい。
しかしその感覚は、以前早稲田を歩いた2019年とは異なっているはずで、そのことに寂しさというか、年を取った事実を実感せざるを得ない。もう若くはないのだと。