見出し画像

盲点だった作家、庄野潤三のこと

この文章を書き始めたのは庄野潤三の短篇「蟹」に感動したからに他ならない。普段、読書の感慨はツイッターにツイートするのだが、1000字ほどでは収まりがつかないとき、このnoteを使って書き記すようにしている。
ところで、この文章は誰に向かって書かれているのか。読んでくれる人がいるとすれば、それはnoteとツイッターのフォロワーたちか、もしくは「庄野潤三」とウェブ検索をした人たちだけである。前者に対して僕の思いはただ一つ、「蟹」を読んでみて欲しいということだけだ。読んだことがない人に対してこの作品のストーリーを書き記してしまうことは良いことなのか判断がつかない。
「庄野潤三」と検索した人というのは、これは読もうか迷っているという場合もあるが、読んでみた上で、他人の感想が気になっている場合の方が多いのじゃないかと思う。となるとこちらは「蟹」のネタバレに配慮する必要もなく、丁寧にあらすじを紹介する必要もないのだ。
といってもこの小説は純文学であり、ストーリーを先に知ったから読む喜びがなくなるわけではない。少しは減るかもしれないが、再読に耐えられる作品だと思っている。
ただいつものことだが、僕がこの文章で書き記したいのは作品だけのことではない。作品を読んだ自分の状況というのも、同時に記録しておきたい。そうなってくるとこれは自分の為に書かれた文章になる。読者が楽しみを見出すとすれば、それは作品そのものの理解ではなく、作品に対する僕の向き合い方への興味ということになる。それでもいいという人は読んでみてください。

庄野潤三(1921-2009)は「第三の新人」に分類されている作家である。
第三というのは戦後に文壇に登場したグループの3番目という意味だ。名付けたのは山本健吉で、偶然にも前回のnoteで言及した文芸評論家である。
第三の新人のおおまかな風潮としては、社会全体を捉えようとする壮大な作風ではなく、日常生活に根付いた個人的で身近な世界が描かれる。安岡章太郎、遠藤周作、吉行淳之介、小島信夫などが代表的作家である。
戦後文学史的にはこの後に〈石原慎太郎、大江健三郎、開高健ら〉の新世代、そして〈内向の世代〉と続き、〈戦後生まれの中上健次、津島祐子〉、〈ダブル村上〉となって、だんだん萎えてくるわけだ。

「蟹」は、やはり前回のnoteで言及した講談社文芸文庫の『戦後短篇小説再発見④』

https://www.amazon.co.jp/dp/4061982648/ref=cm_sw_r_cp_awdb_imm_c_ZZSRFbCZHR8PE

で出会ったのだが、これ以前に買っていた本のなかで、庄野潤三について関係している本は二冊あった。
一冊目はこれも文芸文庫から出てる『第三の新人名作選』。

https://www.amazon.co.jp/dp/4062901315/ref=cm_sw_r_cp_awdb_imm_c_2QSRFbMWNTMQF

大学2年の前期に小島信夫『アメリカン・スクール』を研究するためのテクストとして購入したのだった。新潮文庫版を買わなかったのは、これを機に第三の新人の作品に触れてみようと思ったからだと思う。
今回ここに収録された「プールサイド小景」(芥川賞受賞作らしい)を読んでみて、佳作だと思ったが「蟹」のほうが好みだ。これはサラリーマンが会社の金を使い込み解雇される話で、妻の視点から何に金を使ったのかを探ってゆく。電車からみえる学校のプールで、女子学生に混じって子供を泳がせる父親の、外側からパッとみただけでは知り得ない事実の書かれ方は確かに印象的だと思う。それにこれは作家の実体験というわけではなさそうだ。

二冊目は村上春樹の『若い読者のための短編小説案内』である。

https://www.amazon.co.jp/dp/4167502070/ref=cm_sw_r_cp_awdb_imm_c_3SSRFbYJHBRKH

春樹が90年代にアメリカ、プリンストン大学で教鞭をとったときの講義内容がまとめられたものだ。日本文学を読むそのテクストとして第三の新人の小説が選ばれており庄野潤三は「静物」だ。
一通り拾い読みして、ともかく「静物」と『夕べの雲』を読みたいと思った。
『夕べの雲』は古本屋の講談社文芸文庫の棚でよく見かけている記憶がある。最近だと『庭の山の木』と言う本も書店に並んでるどころか平積みされている。僕が「盲点だった」と感じているのはその部分で、庄野潤三という作家の存在は以前から知ってはいたのだった。ただタイトルだけ見て平凡な身辺雑記だと思い込んでいたのだ。ところが「蟹」を読んだことで、身辺雑記風な題材には変わりがないものの、それが平凡でないことに気付いてしまったのだ。
しかもそのエッセンスが、他の作品も読みたいと感じさせるほどに強烈なものだった。

このほかにも、小谷野敦の本に庄野潤三への言及があった。彼の著作は本の最後に作家の索引がついているので探しやすい。本筋とあまり関係ない作家のことも書き記してあるので気になった作家について情報が欲しいときなどは便利。学術的な論文では楽しめない作家と読み手の共立的なものを「文芸評論」と呼ぶのだとしたらそれは楽しいなと思う。下手をすればこの文章も文芸評論というジャンルに当てはまってしまうのではないか。川端康成が自分の時評に用いてた「印象批評」という語ならば、当てはまるかもしれない。作品に対する印象を書き記す。これなら誰もが書けるし、場合によっては読者に楽しみや示唆を与えることができる。

僕の中で揺れ動いているテーマの一つは、「私小説をどう評価するか」というものである。それぞれに複雑な問題があるとはいえ、作家や批評家のなかにも私小説肯定派と否定派が存在していると思う。
否定派というのは、島崎藤村や田山花袋から出発する日本の伝統としての私小説の世界の狭さについて述べる。それは多くの場合ヨーロッパやアメリカの文学に触れ、それらに感銘を受けたものたちである。特に十九世紀の全体小説のようなもの(固有名をあげればトルストイ、ディケンズ、バルザック、フロベール等)や、二十世紀のモダニズム(もちろんプルースト、カフカ、ジョイス、ジイド等)と比較した上でのスケールの小ささ。こういう否定派としてパッと思いつくのは丸谷才一、安部公房、三島由紀夫(もっとも彼は多作で野心的であり、私小説と読める作品も残している)、村上春樹(彼にも例外がある)、平野啓一郎などである。
私小説肯定派というのも、藤村花袋の自然主義文学、社会的に不名誉なことを告白して衝撃を与えるタイプの小説を容認することではなく、身辺を題材にしながら私小説の構造を解体するようなもので、それを伝統を踏まえた上での逸脱として評価されている。西洋の小説を基盤としている部分もある、三島由紀夫の『仮面の告白』はその種のものだ。
このような私小説を解体した作家として、固有名をあげるなら牧野信一、藤枝静男、後藤明生らがいるが、これらは一部の批評家が褒めたことによってそういうことになっている。
というのも漱石鷗外亡き後の1920年代から戦後にかけて大きな影響力を日本の文壇で持った作家が、雑誌『白樺』で登場した志賀直哉であり、言うまでもなく彼は私小説(あるいは心境小説)の書き手だったのである。

庄野潤三も日常生活を題材にしており、私小説的である。
僕のこのテーマに関する答えとしては、「私小説であろうとなかろうと、良いものは良いし、駄作は駄作」という、身も蓋もないものである。しかし自分の話でも面白ければいいと思うわけだから肯定的でもある。ただ書き手の立場にたったとき、自分の体験を題材にするのはそうではない場合に比べとっつきやすいだろうなとは思う。
批評家は、個人の体験が、時代を切り取る普遍的な体験になった場合褒めたりするようだけれど、僕にとっては普遍的なものだから面白いと思うわけではないと思う。面白いと思うか思わないかの感覚、良いと思うか思わないかの感覚は微妙なもので、偶然の重なりもあるし、外的要因(例えば、気になっている異性にオススメされた本だと内容も好意的に感じる、みたいな笑)もある。

前置きが長くなったが、「蟹」について書こうと思う。
この短篇で僕がもっとも感動したのはその筆致だ。主人公となる五人の家族(父親、母親、長女、長男、次男)がいるが、彼らは誰かの主観として書かれない。別に語り手がいて、「セザンヌの部屋の○○」と呼ぶ。登場するセザンヌ、ルノワール、ブラックは彼らが泊まっている宿の部屋に与えられた名前である。襖一枚の仕切りしかないところがミソで、会話をすると隣に聞かれてしまう。
蟹がルノワールの部屋に入ったとき、父親が頑張っても取れず、長女がいとも容易くとったとき、そのユーモラスな描写に僕は読んでいて笑ってしまった。
これは父親には威厳があるというステレオタイプゆえの面白さだが、僕はこういう描写を戦後における「父権の喪失」と批評的に読むことを毛嫌いする。そのように言うことが何にもならないからだ。
最後の、ルノワールの女の子とブラックの男の子が歌いあって、セザンヌの男の子が「はさみうちだ」と思うところ、あれが見事で、親たちが黙っているのがまた良い。
父親が働いていること。それが今の僕にとって大きいんだと思う。
学生の頃僕がもっとも関心を抱いていたのは春樹と大江だったが、彼らの作品に今縁遠いのは、彼らの主人公が給料取りではないからだと思う。大江に出てくる障害児はなんのリアリティも感じない。
大江はモラトリアムに読むのが一番だ。考えてみれば当たり前で、文学部の学生が一生懸命真面目にやるには文学の研究理論を学習することなのだ。だから文学作品と論文を読む。
どころがサラリーマンが一生懸命やろうと思ったら、課せられた業務を効率よくこなしながら(たとえ上司の指示が不適当に思えても)上司に逆らわず人間関係を円満にしつつ働くことで、そこには打算も必要だし嘘も必要になってくる。運の要素も絡まる。
そういう社会に放り出された僕が大江健三郎のようなモラトリアム小説を読んで未だに感動することなどはないのだ。あるとすればそれは学生時代へのノスタルジーに他ならない。
だからこそ社会人になった今は後藤明生とか庄野潤三に惹かれているのだろうと思う。
「蟹」で、外泊が初めてで寝付けず泣いてしまう次男に対して、父親は心の中でこのように思う。

「我々は宿無しになって歩き出す日があるかも知れないではないか。そんな時は林の中でも川の横でも寝るのだ。」

“真実の言葉選手権”が開催されれば優勝候補になりそうな名言である。
それにしても小6の長女は場面場面で良いお姉ちゃんぶりを発揮する。純真すぎて、あまりリアリティが感じられない。今時の小6がこんなに子供だとは思えないが、どうなのだろう。一緒に家族旅行に行って楽しいものなんだろうか。
まあその辺は性格によるのかもしれない。将来、娘を育てるなどということがもしあれば、その時やっと分かってくるんじゃないかと思う。 

庄野潤三、ひとまず他の作品も読んでみて、気に入ったらまた何か書き残すかもしれない。まずは本を買わなきゃというのが今の心境。しかし、短篇一つでこれだけ語りたくなったことは珍しいので、衝撃を受けたのは間違いない。

この記事が参加している募集

#読書感想文

192,504件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?