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今なぜ教育のアップデートが必要なのか?②江戸期の教育と、明治の学校制度の黎明期

前回のあらすじ

前回からはシリーズとしてお届けしています。
シリーズの目的は、以下の通りです。

①日本の近代教育の目的を解明する⇒その目的は今に合致しているのか?
②近代教育以前の日本の教育について知る⇒その教育は、今に取り込むべき要素を持っているのか?
③では改めて今、重要だと思われることは?

以下、汐見稔彦先生の「今とは違う学校が求められている 生き方と学びの多様化(おるたネット発行)」より引用します。

ちなみに、前回の記事はこちらです。

江戸期の寺子屋は、明治の「学校」とならなかった

寺子屋は学校になれなかった

江戸時代、多くの手習所、寺子屋がありました。一万カ所はあったといわれています。当時の人口が今の四分の一で一万カ所あったということは、今の人口で計算すると四万カ所くらいあったちゅうことですよね。今、小学校って二万何千カ所しかないんです。現在の小学校の二倍近い密度で寺子屋がありました

(中略)

手習い所に関する今のいろいろな研究を見ると、八時ごろに子どもたちが来て、お習字教室やるわけね。で、書いたのを先生に持っていったら、「わあ、よく書けたな」とか「ちょっと、もう一回書いといで」とかって言ってやってました。書道教室ですわ。で、「先生、これ何て意味?」「そんなの大きくなったら分かる」とか何とか言いながらやってたんです。 「おまえ、親は何だ?」って尋ねて、何とかの商売やってると言ったら、「商売往来」という教科書がいいかな、などと決めるんです。往来っていうのは手紙っていう意味なんです。つまり、手紙を書けることをめざしたわけです。農民は「農民往来」とか、「庭訓往来」とかいろんな教科書があった。女の子は「女大学」というような、道徳的な教科書がいっぱいあったんです。そういう教育やってて、秋になると、子ども作品展だとかやってました。それに月謝を払ってたんですが、 金のない人は、例えば農民なんかお金ないの で、「ごめんね、先生、大根二本」とか。それでも大体、オッケーだったとか、そういうことが記録にあるんです。そういう寺子屋、あるいは手習所をそのまま近代の学校にすればよかったんです。 ちゃんと制度も変えて、外見も変えて、看板も変えれば良かったのに一つも認めなかったんです。

明治政府は新しい学制っていうのをだしました。そのとき寺子屋、手習所を小学校には一切昇格させませんでした。

なかなか上がらない就学率

新しい寺子屋じゃない所で教育を始めて、先生方も寺子屋の先生がそのままやってくれればいいのに、また新しく養成してということも始めていくわけですから。なかなかうまく回らなかったんですね。

当初は教科書ないでしょ。今、開発途上国だとか援助国に学校つくるためにいろいろお金を集めて学校つくろうなんてやってますけど、あれをやるだけでは駄目なんです。教科書と教師がいなけりゃ、教育にはならないんですよね。その国の言葉で教科書つくらなければ駄目です。

                (中略)

それまでは、将来農民になる人は「農民往来」をやるとかっていうことでした。しかも座席は、「おーい、おーい、何々ちゃん。一緒に座ろう」とか、あるいはそこらでけんかしたら、「こら、静かにしろ」とかって、自由だったのが、ですよ、明治以降の小学校では、そういうふうな教育では全くなくなって、席は決まってる、手は後ろ、お口はチャックってやられるわけです。先生入ってきたら、パッと、「起立、礼、おはようございます」 なんてやって、「着席」なんてやるわけでしょう。そこで学んでることは、「これは何ぞ?」 「カラスであります」なんて、生活の知恵から離れたもの。そんなの分かってることだよね。そんな教育やってたわけですよ。それで月謝取られるわけ。だから、子どもを送ってる親たちが「何の勉強してんだ?」て言うのなら「文字の勉強してる」っていうのなら「昔の学校のほうが良かった」っていうことで、結局、誰も行かせなくなるわけ。で、明治の10年代なんか、役人は何をやってるかというと、「頼むからちょっと学校に来てくれ」 と就学率をあげることだったんです。

(中略)

で、それでどうしてうまくいかないんだろうっていうことで、明治十年代の初めごろ、 アメリカに視察に行った田中不二鷹文部郷が、「アメリカでは、そんな厳しいことやってない」と、「自由にしたほうがかえって来るんだ」って教育令を改定しました。これは、 明治十二年の教育令で自由教育令って呼ばれています。これが、「強制しないと来るんじゃないか」ってやったんですが、全く来なくなった(笑)。

学校焼き討ち事件

その次の年は、また厳しく「来い」と改正自由教育令が出ました。その明治の十年代に飢儲があっちこっちで起こったんですよ ね。それまでは租税は年貢っていうことで、 米で納めたでしょう。ところがそれだったら税収が不安定だからって、明治政府はお金で納めさせるということを、やりました。地租改正っていうんですが、そうすると、日照りが少なくて本当に米が取れないっていうときも、取れたときと同じだけの税金納めなきゃいけないから、飢値になったら大変なんですよね。江戸時代は飢饉があったときには、 代官屋敷襲って米奪えば良かったんですけど。 もうそれは襲われるほうも分かってるから、そんならもうしょうがない。「あいつら、 死んでしまうと困るから」って。だから「うわーっ、たいへんだあ」て言いながら、ちょっと持って行かしたの。ところが、それがなくなったわけよね。そうすると、襲う場所がないじゃん。みんな集まって、「こんな税金払えるかーっ!」ってあるところを襲ったんです。

で、どこ襲ったか?

それは当時あれこれを押しつけてくる国家の象徴と思える施設でした。それが学校だったのです。当時学校焼き討ち事件というのが、あちこちで起こりました。 あんまりそんなこと、学校で教えてくれないと思いますが。学校は近代国家のシンボルだったんですね。時刻の管理もそうです。それまではそれぞれの所で、お天道さんがそこまで来たからそろそろ星だってことで、お寺がガーンと鳴らしてたわけです。そうすると、北海道ではもうとっくにお昼なんだけど、沖縄は、まだ全然お日様が来てない。ところが今度、時刻も国家が管理するってことで、明石のある所を標準にして、北海道から沖縄まで同じ時間にガーン、12時だってやる。それで、各地に時計を置かせたわけね。どこに置くかっていうと、その村に一つ、学校です。学校の時計台。みんな、あれ見て、「昼だ」ってやるんです。学校はその意味でますます、近代国家のシンボルになったんです。時間までああやって勝手に管理しやがってっていうことです。学校っていうのは、実は近代化の複雑なシンボルなのです。みんなに受け入れられるまでは随分かかります。

(中略)

レジュメの2番にこうあります。
江戸時代、多くの手習い所、寺子屋がありました。一万以上といわれていますが、 明治政府はそれを新しい小学校には昇格させませんでした。なぜでしょう?
2番の答えは、要するに近代国家の担い手としてのある意味国家の期待する人間を育てたかったのに、寺子屋ではそうはいかなかったからです。だから寺子屋を昇格させなかったっていうことなんですよね。

まとめ~江戸期の「バラバラ」な教育と、明治以降の「近代国家の担い手をつくるため」の教育

最後に、

要するに近代国家の担い手としてのある意味国家の期待する人間を育てたかったのに、寺子屋ではそうはいかなかったから

とありました。

前回でも扱った通り、明治期の最重要命題は近代国家の建設です。
それを為すための教育が、全員で同じことを、同じようにする=規格化、同質化を目指した教育です。そして、概ね一斉授業などのシステムは現在まで引き継がれています。

しかし、江戸期までは
・現在の小学校の2倍の密度で寺子屋があった
・相手の職業や性別に合わせ、様々なテキストが存在した
・扱う内容は、農業や商売など実用的(と感じられる)な内容だった


ということになり、規格化や同質化というよりは、より「バラバラ」な、ある程度個別最適化された教育システムです。

だからこそ、寺子屋や手習い所は近代教育制度から除外されました。
これは時代の要請上、致し方ない判断だったと見るべきかもしれません。
また、それ以降の日本の軍事的・経済的発展を見ると非常にこのシステムが機能的だったと考えることができます。

では、次回はさらに明治以降、戦前までの流れを引用にてご紹介しますね。お楽しみに!

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