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アンビバレントな世代としての団塊―反サロの視点から―

私は反サロという社会運動に加担している。これは、我々の生活を圧迫する社会保険料を軽減するために、「高齢者医療の自己負担を3割に引き上げよ」と要求する運動である。サロとはサロンである。病院が高齢者のサロンのように使われていることを揶揄している。

コレ👉実は「誰も幸せになれない」…!いますぐ「サブスク医療」を止めて、全年齢で医療費を3割負担にすべき理由(中田 智之,週刊現代) | マネー現代 | 講談社 (gendai.media)とかコレ👉反サロ運動の輪郭|西端 two-outs-butter (note.com)とか読んでもらえるといいと思う。二つ目の記事は私が書いたものだが、ここから少し引用する。

そもそも、「病院のサロン化」とは、高齢者優遇と医療優遇の悪しきコンビネーションの結果であった。貴族たる高齢者、彼らをビジネスの好機と捉えて現状改革を望まない特殊階級たる医療従事者が手を組み、サロンと化した病院を放置し/させている。拷問じみた延命治療や青天井医療についても、高齢者は「私はそこまでして生きたくない」と言い、医療従事者は「辛い思いしてまでやらせたくない」と言うが、しかし現状として発生している以上は、いずれか或いは両方に問題があると見るのが普通である。

反サロ運動の輪郭|西端 two-outs-butter (note.com)

なぜこれが盛り上がってきたかと言えば、まずコロナ禍のフラストレーションがあり、次いで多くの人口を抱える団塊の世代がとうとう75歳という大台を迎えてきたからというのがある。

狭義の団塊の世代は1947-1949年頃に生まれた世代ということになっている。太平洋戦争がいったん終わりベビーブームが到来した、そのときに生まれた世代。その人口の多さは、歴史的にも例をみないほどの突出っぷりである。

さて、反サロ界隈における団塊の世代のイメージは悪い。なんとなくこんな感じだ。「戦争を知らず、戦後復興のための労働は一回り二回り上の世代にやってもらいがら、ちょっと余裕が出てきたからと学生運動なぞに精を出してヒトサマに迷惑をかけ、それが衰退し始めたと見るやサッサと就職し企業戦士へ。70年代、80年代という豊かな時代をしっかりと謳歌し、組織では重要なポストに就き始める。その時期とかぶさるように平成不況が到来し、結局彼らはそれを止めることもできず失われた30年というものをもたらすことになった。すなわち、勝ち逃げ世代である。」―という風な。このイメージは反サロというよりインターネット全体に浸透しているイメージなのかもしれない。しかし、私はこのイメージには与しないし、反サロ陣営にいる人ならこれを鵜呑みにして団塊を叩くのは止めた方がいいだろう。

「反サロ陣営にいる人なら」の意味を書く。つまり、反サロをやるうえでの問題意識をどれだけ理解しているかという点で、団塊の方がいまの若い層よりも「先進的」だということだ。

反サロが対峙するのは医療の論理である。医療の論理が日本を覆おうとしているために、過剰医療が生み出され、我々の手元から社会保険料という名の実質的税金が吸い取られているのだ。そして、その医療の論理とは生命至上主義と密接な関係にあり、まずこれを解体しなければ話にならない。

…とここまで書いて、「じゃあ生命至上主義の源流とはなんだろう」となってくる。その答えは戦後民主主義であることは、西部邁はじめ多くの論者が指摘していることだ。では戦後民主主義をいちばん疑い、それに抗おうとした人々とは誰だろう…そう考えたときに、1968年周辺の学生運動があるのだ。その盛り上がりの頂点として1969年の東大安田講堂事件を挙げる人は多いが、同年、戦後民主主義の象徴たる「わだつみの像」を破壊した一連の事件の方が、実は強い意味を持っている。


わだつみの像

<懐かしの立命館>立命館大学の長い1日 その日「わだつみ像」は破壊された | | 立命館あの日あの時 | 立命館 史資料センター準備室(旧・立命館百年史編纂室) | 立命館大学 (ritsumei.ac.jp)

わだつみの像を破壊することには戦後民主主義への強い猜疑と抵抗心が見て取れる。これをやっちゃったのが団塊周辺の人々なのである。いまの若い連中はまずこんなことをやらない。それは根強く浸透した監視社会の影響もあるし、そもそも「戦後民主主義へのアンチテーゼ」みたいなことを十分に理解できないだろう。

団塊の世代はこのような荒れた時代を経験したからこそ、医療の論理に組み込まれずに70年代80年代とモーレツ社員として頑張れたのだろうとは思っている。そういう意味で、団塊というか上の世代は病院文明の中で育ってきた平成令和生まれなぞよりも「先進的」なのである。

ついでに言うと、彼らは運動のテクニックを知っている。学生運動が衰退したあと、一部の学生運動家は市民運動に流れた。フェミニズム運動、薬害問題、公害問題、反原発運動…もちろんこれらの運動の内実すべてを肯定せよというわけではないが、重要なことは「運動に身を投じている」ということだ。

事実、たとえば、それが幸か不幸かは各々の感想によるだろうが、フェミニズム運動は実を結んだ。反原発運動も一時的に勝利した。社会運動は毛嫌いされるが、やれば勝ち得るというのもまた事実である。社会運動を嫌う言い分としてよくあるのが「選挙でいいじゃん」であるが、既存の政党の誰かに頼ってそれでオシマイで良いのだろうか? 政治家が何かをしてくれる保証はあるのだろうか? コロナ禍においてはどの政党も自粛賛成派だったのを思い返してみるとよい。「どの政治家にも期待できないイシュー」というのは、存在する。反サロは維新の音喜多駿と国民民主の玉木雄一郎に期待しているようで、私も期待はちょっとだけしているが、全体重を彼らに預けるのも危険である。政治家に頼らない運動体があると便利だし、それを作るノウハウを知っているのはやはり上の世代なのだ。

なんだかんだで勝利したフェミニズム

以上、「医療の論理を疑える」「運動のノウハウを知っている」という点で団塊世代は若い世代よりも先進的であり、むやみやたらに叩けばいいということではない。

とはいえ、彼らに迎合するのもそれはそれでおかしい。反サロとは大まかに言えば高齢者の負担を増やすことを要求しているのだから。彼らに対しては建前としてはNOでないといけない。しかし、前半で掲げたような雑なイメージで団塊を否定するのも愚かしい。やるべきは、「あなたたちは人口が多すぎて、僕らではもう支えきれません。僕らからお金を取るのをやめてください」というスタンスを取り続けることだろう。世代間扶助ではなく、世代内扶助を要求するのである。

団塊は高齢者であり人口が多いという点で反サロの敵となるが、一方で反サロの思想としては「モーレツ」な団塊に学ぶことは多い。このようなアンビバレント性は認識しておきたい。

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