まずいと言うか、合わないと思うか
とても繁盛している飲食店がある。メニューは一つだけ。その料理は普通に作る分にはそれほど難しくもない。自分でつくってもそれなりに美味しい。
しかし、ここの味が俺には合わない。味や舌触り、噛み応えなどの感触、言わば全てが俺の求めるソレとはずれていてちぐはぐなのである。
ここに始めて食べに行ったのは相当前だ。5年以上。下手したら10年くらい。
その頃の俺は食べ終わった後に怒っていた。
「なにあれ!?まずい!好きなやつ、舌が馬鹿なんじゃないの!?」
ここには傲慢さと、世界の狭さと、いわば愚かさを結集させたバカヤロウオールスターズみたいな心境が垣間見える。
つまり、俺の好きな味以外認めぬ!我、味王なり!
みたいな傲慢さと。
今まで食べてきた料理が世界の全てである!我、世界を手中に収めたり!
嘘でしょ?狭くない?っていう端的なツッコミはいりそうな世界な狭さ。
そしてこれをどうどうと他の人に発信できちゃう愚かさが同居していることをほぼ一言で言えちゃうわけだ。
今の時代ならこれよね。
どう?すげえバカみたいよね。なんて表現すればいいのだろう。ちゃんとした大人じゃない、のは間違いなく読み取れちゃう。
・人の好きなものを貶める権利など誰にもない
これも題名も色々拡大解釈されて議論が広がるところだが、とりあえず無視する。
この飲食店にはファンが沢山いる。つまり好きな人が沢山いるのだ。そしてそれは決して数の問題ではない。なんなら開発した料理人の人、お店を出したオーナー(同一の可能性有り)、スタッフ、そのご家族、想いを載せている料理がある訳だ。
大事なものなのだ。
それに対してのあの文句。人としてどうだ。例えば俺が大事に作ったバンドの曲を。
「だせえ!歌も演奏もひでえ。好きなやつはおかしいんじゃないの」
と言うのと一緒。傷つくー!自分で書いてダメージ。
いや、思ってもいいんだよ。合う、合わないはあるから。わざわざ言わなくていい。
好きなものが悪く言われてたり書かれたりしてるのを目にしたら、良い事なんて一個もない。誰かのテンションを下げるという事はパフォーマンスを落とすという事だ。社会の損。
・まずいもの、として自分の記憶の中で固まってしまう。
俺は子供の頃寿司が食えなかった。ナスもトマトも嫌いだった。ピーマンも。今は大好きだ。子供の頃、それらはまずかった。
突然食べられるようになった。子供から大人になる際に食べられるようになったのか?味覚が変化したのか?食わず嫌いに気付いたのか?
要因はしらないが、考え方はかわるからそのタイミングで口にすることはある。それで気づく。嗜好が広がり、世界が広がる。
これが不思議なもので体調などで味の感じ方は本当に変わる。ネクスト食べたときにものすごく美味しいかもしれない。
その機会をまずいもの、としたら未来永劫失ってしまう。
これはべつに拘らなくてもいい。チャレンジした結果、また合わなかったと撃沈することもある。
俺はそこも含めて楽しんでいる。
・否定できたから偉い訳ではない。
味がちょっと濃いよね。塩の使い方がイマイチ。焼き加減もどうこう。
みたいな解説する人ー!いませんか?ご飯がまずくなりますよー!
私はご飯を食べに来たわけで会って、知識を増やしに来たわけではありません。まあ、これは話術とかにもよるので一概には言えませんが。
誰かを、何かを落としたからといってあなたは上がっていない。
何より、あなたにその料理がわからない、という可能性は多分にある訳だ。俺の友達たちで優秀だなーってやつらは仕事でも否定って本当にしない。改善点と代替案を持ってきたりするけど、感情的な駄目だしなんて見たことない。何でも一緒だよね。
確かな知識と裏付けから成長を促すために、否定する先生のような立場もあるだろう。でも間違いなく俺のは余計なお世話だよね。愛も無かったし。
人気店、否定できるし、俺食通
みたいな残念な575読めるくらいの愚かマンでした。
あと、まずい、って言葉良くないね。あんまり使いたくない言葉だな。今の俺には合わないな。