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街道をゆく〜台南〜

帰属意識の根拠である言葉が拠り所を失くす最中、耳心地の良いそれは、未だに私からはうまく出てこない。

さて台南。私の原体験はここにある。幼少期の体験でなくとも、私を織り成す要素の一つであれば、それはいつだって原体験である。

2013年の話である。この年から明確に自分自身の人生を司る感覚を覚えたのである。それからというものブルースは独立を保ち、時折ハレルヤに耳を傾けながらも決して同ぜず、私の人生を薄暗く彩ってきた。時の流れはここから加速した。その叙情詩の冒頭を飾るのがこの場所であった。

初めて下り立つ地を何よりも嗅覚が捉えた。湿気混じりのくすんだ甘みが速やかに鼻腔を通り抜け、私に異国を自覚させた。

この頃の私はまだ煙草を喫んでいない。
吸いさしで何処かを指すことも知らない少年は目の前の光景にただ目を輝かせていたのである。

味覚が困惑している。腸詰めが相場通り…無論ここでの相場は私の主観である…ではないからである。しかしこの甘みが大蒜や生姜とよく合うことを知ったのは後のことである。

早くも過去を語ることに飽き飽きとしているが、それは当然である。つまり、道筋は幾つにも枝分かれ、それぞれが独自を形成しているように思えるが、結局私の中に収斂を見る。今を語る理由はそこにある。

2022年10月26日の話である。
台北から2時間ほど高鐵に揺られる。原体験を目の前にして思わず声が漏れた。私の知る台南が予想外に冷たい風を吹き付けたのは、私を知っての歓迎なのだろうか。

我要一杯火龍果汁。
ドラゴンフルーツのことである。すっかり習慣となったこの果物をここでも飲むことにした。お決まりのようにどこの国の人間かを問われる。これぐらいならにこやかに返せるぐらいには成長をしている。ホテルに戻りゆっくり味わうという計画はいとも簡単に崩れる。作りすぎてカップに入り切らないからここで少し飲めと言うのだ。これが台湾が台湾たる所以である。

台湾を緩やかに流れる風はまるで人々がそうであるように、流れれば流れるほど緩く吹くらしい。しかし台南のそれはもはや揺蕩うという表現が相応しいのではないかと思うほど、「當地人」と共にあるのだ。

すっかり台北に慣れた私は多少の不便さを感じながらもどうにかタクシーやバスを乗り継いで、目的地に向かっているらしい。

飛虎将軍廟にいる。
先の大戦で戦死した軍人が、今では神となりここに祀られている。あいにくこの国で君が代を聴くことは叶わなかったが、やはり台湾史と日本史は切っても切り離せない関係であることを改めて深く思い知ったのである。無粋ではあるが、今の価値観を以って過去を見ることが極めて非生産的であることは誰もが知っている。だからこそ私はこの場所に思いを馳せていたのだ。

そして花園夜市。
曲がった鉄板の上で適当に海鮮を踊らせながら楽しむことにした。どこでも食べられるような平凡な味である。だが私が噛み締めているのは味だけではない。咀嚼音に反応をするかのように原風景が蘇る。私も少しだけ大人になってしまったらしい。

帰路につく。やはり不便である。この場所ではバイクを借りることは容易いのだが、痛恨免許を持っていない。重く緩やかな足取りがどんどん重くなるのを自覚する頃には、自然手を上げてぼうっと車窓を眺めていた。

後悔の残る旅はこれまで何度も経験してきた。幸い私はまた台南に「戻って」これるのだ。またその地に降り立ったときに再び文字を紡がなければ、どうにも自分自身が納得できないであろう。この中途半端な衝動と折り合いをつけるのは、この辺りであろうか。

また会う日まで、台南。


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