墨書の発達(隷書)
2019年1月〜2月東京国立博物館で特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」が行われました。書の歴史から初唐の三大家、そして顔真卿の生涯とその書風の変遷、顔真卿の影響を受けたその後の能書たちの作品が一堂に集められ、書道史を俯瞰できるばかりでなく、その貴重な実物を目の当たりに観ることのできる素晴らしい展覧会でした。
そして、その中のメインが「祭姪文稿」と言う台湾・國立故宮博物院所蔵の日本初公開作品でした。安史の乱で従兄弟とその末子を亡った顔真卿が二人を供養した文章の草稿、つまり下書きです。普通は世に出るはずのない草稿(下書き)ですが、その悲痛な感情が溢れ出し、見る者を惹きつけます。
1.甲骨文には下書きがあった
甲骨文から篆書までの時代にも下書きは行われていて、それらは筆と墨で書かれました。甲骨文などは、牛の肩甲骨や亀の甲羅に刻み込まれたものですから、その時代には墨や筆などなかったかと思われがちですが、すでにそれらがあったのです。
紙のない時代には、木や竹から作られた短冊状の細長い板、「木簡」「竹簡」に墨書が書かれました。複数枚の木簡は、ばらばらにならないように麻紐などで縛って束ねます。この状態を表した象形文字が「冊」です。甲骨文にはすでに「冊」の字が見られ、同様に「筆」や「書」の元となった「聿」の字も見られることからも、この頃すでに「筆書き」があったことがわかります。ところが篆書までは、甲骨や青銅器、あるいは石に刻み込まれ、下書きである墨書はほぼ残っていないのです。本来漢字は、毛筆で書くものではなく、刻するものだったのです。
2.実用書としての墨書の発達
秦代になって、下級役人たちが日常的に文章を筆記するようになると、木簡に毛筆で書いたものが実用として用いられるようになりました。下級役人たちは、「日常の文字を正しく美しく」書かなくてはならなかったのです。
篆書は縦長で曲線が多いですが、細長くて木目のある木簡に書くには木目を横切って引く横画が強調されるため扁平な字形となりました。また、篆書は曲線が多いのですが、木簡に書くためには直線的に書いたほうが書きやすいので、次第に篆書を書きやすい形に崩した通行体が誕生しました。それが隷書です。篆書から隷書が生まれてきたころの過渡的な隷書を「秦隷」と呼びます。秦代のころすでに、業務効率を高めるために公文書にも隷書が使われるようになり、漢の時代になると通行体であった隷書は正書として扱われるようになりました。
3.隷書の発達
前漢から後漢への約400年の間に、隷書体も少しずつ変化してゆきます。大きく波打つ横画「波磔」が現れ、右払いも同様に波打つような運筆の払いをするようになりました。これらを総称して「八分」と言います。八分をもつ隷書のことを「八分隷」とも言います。この八分は、一文字の中で一箇所だけに使うと言うルールもでき「一字一波」と言います。
当時、木簡に文字を書くときは、木簡を左手で掲げ持ち、筆を木簡に対して垂直に立てて筆記しました。ですので、入筆は楷書のように四十五度から打ち込まず、金石に刻する時のように逆入筆で鋒先を入れてから反転する蔵鋒となります。運筆の途中では鋒先が線の中心を通ることになり、これを「中鋒」と呼びます。また、直線と折れによって表現されるため、「筆画」「筆勢」が生まれました。毛筆で筆記するときの筆圧や、運筆の勢いなどが表現されるようになりました。
それまではどの線も同じくらいの太さ、同じくらいの速度で書かれていたのが、毛筆による豊かな表情を持つようになったのです。
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