2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」で、ガクト演じる上杉謙信が甥に書を教えるシーンがありました。そこで、手本を書いてやろうと半紙に書いていたのはカタカナでした。実際に米沢市上杉神社には上杉謙信がのちに景勝となる甥の喜平次に与えたと言われる片仮名手本が所蔵されているそうです。 1.カタカナの始まり 万葉の頃、借字による筆記法が定着した後、9世紀頃になると僧侶たちが漢文(中国語)を和読するために送り仮名などをつける「訓点」として、借字の一部を省略したものを使ったこと
2016年3月に福岡県糸島市ので、弥生時代後期(1~2世紀ごろ)の硯が三雲・井原遺跡見つかりました。 この遺跡は中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされ、邪馬台国時代の倭国が文字を用いて外交した裏づけとなりました。20世紀の終わりから、古代日本の文字にまつわる様々な発見が相次ぎ、従来考えられていたより古くから日本で漢字が使われていたことがわかってきました。 1.中国語の発音にも時代による違いがある 漢字が日本に伝わると、外交のために中国語(漢文)で文
1984年に中国、安徽省馬鞍山市の紡績工場の拡張工事中にひとつの墓が発見されました。 墓はすでに盗掘にあっていましたが、それでも多くの副葬品が出土し、その中に「刺」「謁」と呼ばれる現在の名刺にあたる木の板が見つかったのです。 1.発見された最古の「楷書」 そこには、「持節右軍師左大司馬当陽侯朱然再拝」と書いてあり、埋葬されているのは呉の将軍、朱然であることが判明しました。そしてその墨書は、発見された楷書として最古(249年)のものとなりました。また、魏の鍾繇(151
以前「私たちが普段書いている字は行書です。」と師である父から聞いたときは、とても驚きました。私はそれまで、自分が書いている普段書きは「楷書」だと思っていたからです。 しかしよく考えると、楷書と呼ぶにはあまりにも不格好ですし、終筆はわずかに跳ね出し、折れは曲線的になっていたり、確かに行書の特徴でした。 役所に提出するような書類を書く時は、一点一画を正確に、印刷の字のように書こうと心がけますが、普段書きの字はある程度崩した書き方になります。 秦で篆書が正書体とされた時、
2019年1月〜2月東京国立博物館で特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」が行われました。書の歴史から初唐の三大家、そして顔真卿の生涯とその書風の変遷、顔真卿の影響を受けたその後の能書たちの作品が一堂に集められ、書道史を俯瞰できるばかりでなく、その貴重な実物を目の当たりに観ることのできる素晴らしい展覧会でした。 そして、その中のメインが「祭姪文稿」と言う台湾・國立故宮博物院所蔵の日本初公開作品でした。安史の乱で従兄弟とその末子を亡った顔真卿が二人を供養した文章の草稿、つま
中国旅行の見所といえば、紫禁城に兵馬俑、そして万里の長城というところでしょうか。特に万里の長城は、2000年以上の時を経てなお中国の名所として残っているのですから、それを作った秦王朝と始皇帝の権力は強大なものです。 初めて中国全土を統一し、初めて皇帝という称号を使い、現代まで続く中国の形を作ったとも言われます。丞相であった李斯が度量制度の統一や法整備、郡県制の導入、馬車の車輪の幅まで統一しましたが、地方によって様々に派生した漢字を篆書という書体に統一、流通させたことは統
山梨県市川三郷町に「大門碑林公園」があります。中国陜西省碑林博物館の監修・制作で、中国歴代の名碑15基が完全コピーされ、日本にいながらにして、中国の有名な書を目の当たりに見ることができます。 石碑は、写真も印刷技術も無かった時代の書を、現代まで残してくれる貴重な資料です。 同じように、青銅器に鋳込まれた文字である「金文」も、その当時の原史料をそのまま残してくれています。 金文や碑文(石文)を研究することを「金石学」と言います。 永く遺跡に眠っていた甲骨と違い、青
私事ですが、医者から「柴胡加竜骨牡蛎湯」と言う漢方薬を処方されています。「サイコ」「ハンゲ」「ケイヒ」「ボレイ」などの生薬に「リュウコツ」と言う生薬も入っているお薬です。で、その「リュウコツ」が、漢字誕生の歴史発見につながったのです。 1.甲骨文の発見 1899年、王懿栄(おういえい)という人物が「竜骨」という漢方薬を購入しました。その竜骨には模様のようなものが刻まれていて、劉鶚(りゅうがく)という人と共にこれが文字ではないかと考えました。 そして竜骨を広く買い集めて
だいぶ以前に、知人へのプレゼントのために描いた作品です。額装して差し上げたので、すでに手元には残っていませんが、その後もこの字は何度か書いています。