「~~してみたい」という欲の尊さ

マズローが人間の欲求を5段階に分けているように、欲にはいろんな種類がある。いろんな分け方ができる、と言ったほうがいいかもしれない。
個人的には、「~~してみたい」という欲に最近注目していて、折しも今日、知り合いが「サマソニのチケット買った。行ってみたかったんだ」ということをツイートしていて、なんかいいなと思った。

「~~したい」というのがスタンダードな欲だとすると、「~~してみたい」という欲には好奇心が加わっている。
何かをしてみたいという時、その何かはまだやったことの無いことだからだ。
初めて何かをしてみるということは尊い。
「アメリカに行きたい」と言われても、ああそうですかとしか思わないが、「アメリカに行ってみたい」と言われるとグッと来てしまう。ぜひとも応援したい。行ってみて、いろんなものを見聞きしてきてほしい。そして無事に帰ってきてほしい。
「寿司を食べたい」と言われれば、「食べたいよな」と共感するが、「寿司を食べてみたい」と言われると、まず「食べたことないのか!」と驚き、「おごるから寿司屋に行ってみよう」と連れ出してやりたくなる。
「家に帰りたい」と言われれば「じゃあ帰れば」というだけのことだが、「家に帰ってみたい」と言われたらただことではない。
「~~してみたい」というのは特別な願望であるように思える。

「してみたい」という欲には、無邪気さも感じる。
例えば「世界を支配してみたい」という欲望があるとしたら、何かチグハグな感じがしないだろうか。軽い気持ちで言うことじゃないだろ、というのもあるが、基本的に「してみたい」という欲は経験の少ない者が使う言葉なので、そのしてみたいことというのがあまりハイレベルなことになってはおかしい気がする。
「一回戦を突破してみたい」と、「優勝してみたい」という欲を比べてみると伝わるだろうか(でもずっと2位に甘んじている場合はそういう欲も成立するのかもしれない)。

そして、「~~してみたかった」と過去形になってしまうと、なんだかホロリと来てしまう。
してみたいのに実現しなかったのだ。
なんでだよう。ちくしょう。かなえてくれたっていいじゃねえか。

この実現しなかった願望として印象深いのは、『火の鳥』ヤマト編の王様だ。

手塚治虫『火の鳥』ヤマト・異形編 148ページ 角川文庫

死ぬ間際の意識だからか、なぜかセリフがカタカナになっているが、とても素朴な欲望を吐露している。
大王であってさえもやり残したことはあるのだ。いや、大王だからこそできなかったこともあるかもしれない。
なかでも「一度ジョニーウォーカーを飲みたかった」というのがいい。
だってみなさん、死ぬ間際に何か「飲んでみたかった」と思えるもの、ありますか?まあ我々にとってジョニーウォーカーは飲もうと思えば飲めるものだし、だいたいのものはそうだから、あえて「飲んでみたかった」と悔やむことはないかもしれない。
以前読んだ『バブル文化論』という本に確か、バブル以前=80年代の日本はウィスキーやパスタの種類が極めて少なかったということが書いてあった。調べてみるとウィスキーは1971年まで自由な輸入もできなかったそうで、ジョニーウォーカーは当時結構な高級品だったんだとか。
おそらくはジョニーウォーカーを飲むというのが一つのステータスだったんだろう。そういう高級品にあこがれているというところにやっぱり無邪気さがあると思う。斜に構えてないでさ。

だんだんと人生はマンネリ化するし予想がついてくるので、「~~してみたい」という欲が弱くなってくるように思う。「やってみたけど普通だったな」という経験も増えるから、「まあしないでもいいか」と適当に済ませて、既知の範囲で欲を満たす。
宇多田ヒカルも「去年よりめんどくさがりになってるぞ」とKeep Tryin'で言っていたけど、それと同じことかもしれない。改めてみるといい曲名だな。


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