SUZUKIRYUJI

ICHI MARU ICHI Director / URUSHI Lacquering

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最近の記事

ひとでなしの恋 [2023]

誰もが言葉を尽くし、かつてないほど世界は言葉で溢れた。 溢れかえった言葉は無数の境界線を引きながら、世界を鮮やかな虹色で塗りつぶしてゆく。僕らは何色かに分類されながら、この二値的な人間世界に生きづらさを感じている。 言葉とは本来、圧縮・還元が可能な計算記号である。詩や句はその顕著たる一形態であり、名前のない色や形まで含んだ滑らかな世界の抽象的記述に他ならない。 たとえば「恋」のような実質と物質との狭間に、それはある。 自己と他者、自然と不自然の境界を規定してきた言葉を解き、

    • syngularity [2022]

      風に雨を尋ねるように、木の葉に季節を知るように、演算から風景を取り出してみる。 修練の先に宿る一回性のうつくしさもあれば、蓄積された見識から零れ落ちる一筋もまたうつくしい。 際限なく生み出される音楽を、いま僕たちは写真を撮るように聴きはじめている。 やがて人と機械の反復の中で教義や規範が生まれ、溶けた自然における聴覚体験は新たな周波数帯に形成されてゆくのだろう。 この特異点は、人と自然のあたらしい共感覚の幕開けである。

      • Rhapsody in Blue [2022]

        量子化されたトルコキキョウは、限りなく光に近傍するデジタルアーカイブとして、あるいは時間軸をほんの瞬きに圧縮した一枚の風景として、計算機によって補間され、転生する。 すべてははじめからそこにあり、しかし捉えられたすべてがそのすべてではない。一期一会がそれぞれの観測者の編曲で奏でられ、響きを遺してまた光と影の彼岸へと還ってゆく。 トルコキキョウは永遠を彷徨う。 僕らはその姿形を取り出しては、瑞々しい生の瞬きに思い思いの色を愛でている。

        • +3

          Scheduled Nature in the Heatwave [2022]

        ひとでなしの恋 [2023]

          媒体としての器 / Ware as a Medium [2018]

          対面しない世界観が浸透する中、制作意図や解説など保温性や再現性を必要とする情報の伝達手段として解説動画を製作しました。ご笑覧ください。

          媒体としての器 / Ware as a Medium [2018]

          memento. [2018]

          繰り返し生けられては枯れていく花をメタファーに、装置は記憶の断片を再生しながら並行世界を予感させようと試みている。あらゆる失敗の末にこの世界線へと転生してきたならば、その収束範囲からの逸脱こそが今生の使命なのかもしれない。 ひとつひとつの違和感は、わずか数バイトに圧縮された物語を束ねて、いま僕たちに何かを手渡そうとしている。 それはいったいどんな祈り、どんな願いだっただろうか。 "memento(思い出せ)"

          memento. [2018]

          溶けていく境界線 [2019]

          多様性とはAとBとが認め合うべき、といった話ではなく、CもDもイも⑧も赤色も硬いものも同時に存在するごった煮の世界観だ。そういう世界で、どこからどこまでという線引きや二項で対立させる構造に、僕たちは息苦しさを感じている。 例えば人と森との境界線は、おそらく生命のやりとりの中で自ずと決まってきたものだろう。人の生命、あるいは森に息づく生命はそれぞれに干渉しながら、互いに着かず離れずの距離感を保ってきた。そしてそれは明確に標を打ち立てるような境界ではなく、互いの生存戦略を駆け引

          溶けていく境界線 [2019]