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悲しい、について考える日

今日は少し、お気持ち的には少しではなく落ち込むことがありました。
「自分の機嫌は自分で取る」というのに憧れています。
だけれど、落ちるものは落ちるし、にこやかにできないときも発生してしまう。

今日のお昼は天ぷらパーティでした。
買い出しに行き、帰り道に落ち込みが発生しました。
正確には、私が撒いた種が咲いた。その結果を知ったのがこの時。悲しい花も咲きますね。

天ぷらパーティだというのに、お心が曇り。なんならピッシャンドッシャンと雷付き。
天ぷらパーティはお家で父とです。
父にはなんら関係のない話。
不機嫌になりたくない。だけれど元気の在庫がなくなった。どうしよう。

ここで全てを悲観しはじめて10秒。
ん?全部が全部ブルーになる必要はなくない?
元気はないけれど、楽しくもないけれど、天ぷらパーティは楽しくしたい。
家は父が居間にいるときはテレビが流れています。
その時流れていたのは男性3人で旅行をしている番組でした。
その中で兼近が、コーヒー飲めないんですよね、と言いつつ、頼んだからと飲んでいました。
みんながコーヒーを頼む中、じゃあ俺も、とカッコつけてしまったと。
なんじゃそら。かわいい。
飲みたかったのはリンゴジュースだけど、頼んだからちゃんと飲むと。偉い。
ふと笑って、気づくとさっきまでの心の曇り空が晴れていました。

あーテレビって、芸能人って、元気をくれるんだなあって。
ありがと兼近、とツイートしたくらいに。

私は悲しくなると全てが悲しくなってしまいます。
そうだった、のですが。
悲しいことって起こり得るし、なんなら定期イベントだし。避けられないし。
今回は自分が撒いた種だったから悲しさが蔓延りそうだったけど、(はびこりそう)(人によっては分かりにくい言葉かも、ごめん)もう私は、そこまで無知じゃないなって思った。
人の気持ちは変わりやすい。一定じゃない。
しんどい時は余計に余裕もない。
だから人は距離を取る。
自分の為に、相手の為に。


ずっと一緒じゃなきゃって、ずっと仲良くなきゃって。それはきっと強迫観念。
離れてもいい。
楽しく喋った過去があって、優しくしてもらった過去があって。
離れたなら、それはどうしようもない。
人の環境は移ろいゆく。

関係ないけれど、この春、色々種まきした。
経験だと思って、今まで避けてきたことに積極的になった。
それがどんな結果になっても、やってみたいと思った。
今回悲しかったことについては思わぬ種まきで、思わぬ結果で。でもそれは自分の良くないところが見えたから、これから気をつけたいなと思う。

抽象的なnoteになった。
だけどこれくらいが今私が書けること。


油物、量食べれないね。
年齢を感じる。ジワジワくるんだろうな。


ついでに脱線していい?
仕事辞めちゃうこと、まあ結論を出すのは明日なのだけど、まだ辞める気持ちだけれど。
たぶん、きっと、応援してくれてた人たちにしたらいい加減な決断で、なんなら裏切られた気持ちになる人もいるのかも。
私にとって働くってなんだろう。
お金のため、生活のため。
それはみんながそうだろう。

私は父のおかげで生活ができている。
それに甘えて仕事を辞めようとしている。
私は、31歳なのに、こんなんで。
だけれど、

居たくないなあって思う場所に
やりたくないことをやって
1日の半分持っていかれて
笑顔でいなきゃいけなくて
訳解んない奴もいて
その相手を笑顔でしてる人を見て

無理だった


夢見がち。
現実見えてない。
私は頑張ってるのに。
そう周りに言われる気がする。
現実は誰もそんなこと言ってない。

でも生きてるなら、

嫌なことも避けていいんじゃないかって


職場は遊び場じゃないんだから辛くて当たり前

そんな生き方悲しい


生活が厳しくても、毎日が好きでありたい
今、父に負担をかけていること
今まで無自覚だった

父も仕事嫌だって
腰も痛い、体も痛い
だけど生活のため、と溢していた


その父のおかげで私は温々と家にいる
ここに住めてる
ごはんが食べれてる

ごめん父
ごめん

だけど私は、毎日を悲しくしたくない
働くことが楽しくならないだろうか
嫌なことがあってもここが好きだと言える環境がいい
そんなの夢見がちかもしれない

でも
でもさ

悲しいのも苦しいのも嫌なんだよ
些細なことが、周りには理解できない些細なことが
私には息ができなかった


落ち込み沼回避のnoteだったのにお気持ちnoteだ
でもnoteはそういう場所だと思ってる


書くことが、仕事に繋がらないかなって思っている
書くこと大好き

なにおれさんっているんですけど
お金の情報、生き方の情報を発信している人

あんな風になれないかなって思っています

なにおれさんが発信してることって
見てる人が自分に関係があることだから需要があるんだろうなって
お金もそうだし、生き方もそうだし。
でも本を読んですごく、腑に落ちた

自分のために努力したことを、じゃあ誰かの為にもなるのかも、と発信すること

そうじゃなきゃ続かないって
自分の為だからできるんだって


私にとっては
息苦しさとか
どうしても悲しい考え方をするとか
人とどうやって関わったらいいのかとか

その辺が自分にとって大きなテーマではある

自分との付き合い方も


死にたいって思うこと
当たり前だと思ってた
悲しくなったらそうなるでしょって

それが普通はそうじゃないんだよって
最近見かけるけれど
それが本当かはわからない
人によって考え方が違うのに絶対なんて存在しなくて
だからその考え方も個人の1意見だと思うから

だけれど死にたいと考えることは減った

私は痛いのが無理すぎるから
自分で命を断つことはできないけれど
ゲームのリセットボタンみたいに
生きることを終了するボタンがあれば
私はとうに押している
何度も何度も

悲しい話がしたいんじゃなくてね

そうやって考えて生きてきたよ


悲しいターンと嬉しいターン
色んな感情のターンが巡りつつ
日々って過ぎていくんだと思う

悲しいとき、雨が止むのを待つしか方法はないけれど
推しを見たり、好きな飲み物を飲んだり
私にとって書くこともその一つ
安心材料
集めて集めて

ふと軽くなる

その時を待つしかない



何が言いたかったかな
こうやって綴ることが安心するから書いてる気がする
目的地もなく

書くことはデトックスだ
落ち着く
人に話して落ち着くこともあるけれど
それって相手にも負担をかけるから
私は避けたいと思っている
なんて言って失敗してるけど

愚痴は軽く、もしくは笑えるように
星野源がそんな風にしてるって言ってて
いいなって思った


生きることについて書く時
ちんけな言葉になりそうになる
この言葉、誰かが言ってたやつじゃない?って
削除ボタンを押して
良いことなんか言わなくてよくて
自分の気持ちを書けたらそれでよくて

書くことが仕事に繋がればって願ってる
それは好きなことを仕事にしたいからだ
だけどそのその願いのせいで書けなくなってしまったなら、私の好きなことができなくなってしまう

仕事にならなくても
好きだからやる


そんなんでいいと思う

この先どうやって生きていくのか
そんなのその時々で考えられるか
のらりくらり暮らして
いい加減で
でも楽しい方の比率を高くしたい
しょうがねえなって笑ってたい

私は大したことないけど
私は私の言葉が好きだ
だから綴る
この言葉が誰かの心に寄り添えたらいいなと投稿してる


自分を否定してくる自分に
宥めつつ、距離を取りつつ
人の意見だと思ってることって自分が思ってることだったりする
全部自分のフィルターを通してる

色眼鏡かけるなら
好きな色にしちゃおうぜ

世界が好きな色で満ちますように

私も私に優しくしてくれ
努力するから




読んでくれて、ありがとうございます🌱