見出し画像

心ない人

昔から言葉をオブラートに包んで、人を傷つけないようにすることが苦手だった。思いやりのなさや、言語能力が低いのかもしれない。あるいは、言葉によって傷つけられた経験があるゆえに、自分も言葉を生のままぶつけても良いと思っているのかもしれない。

努力家という言葉が嫌いだった、自分にとっては褒め言葉でも何でもない。
バスケットボールをやっていて、頑張っても頑張っても上手くならなかった。他人の努力なんて見えないけど、チームの中で一番バスケットボールに時間を費やしている気になっていた。努力家という他人から目線が、努力しても能力が上がらない事実を突きつけている気がした。

『正欲』じゃないけれど、他人を傷つけないなんてのは無理なことで、努力家という言葉に苛立ちを感じていたように、ある人にとっての地雷ワードを予測することなんて不可能で、それと同じような感覚で、言葉をオブラートに包むことの不必要さをどこかで感じていた。

親から優しい言葉をかけてもらった記憶がない。例えば、「無理しないで」とか、「十分やったよ」、のような優しい言葉だ。女性の先生だったり、バイトの年上の女の人とかに、たまに言われたりするのだけど、自分は全くダメージを受けていないのに、言われたりする。普通なら、気を使ってもらってありがたいな、なんて考えてもおかしくないのに、実際の自分の精神状態とのギャップがありすぎて、ポカーンとしてしまう。あなたは頑張っていると他人に言われても、心が受け付けない。自分が自分を認められないからだ。

さすがにひどすぎたなと思う会話があって。性格的に全く合わない女の子にご飯をさそわれて、「行ってもいいけど、あんたが誘わないと俺は行かない」とメッセージを送った。返信が、「やばすぎる、あんたって呼ぶのもやばすぎる」みたいな感じだったので、「あんたなんてただのyouじゃん」と返していた。悪魔の子かもしれない。冷静に考えたらおかしすぎる。言わなくていいことしか言っていない。なにも考えずに会話をしていると、こういうことが起きるから、得意じゃない。根底にある性格が悪すぎるので、社会に出るタイミングで、いちいち気を使わないといけないのが心底面倒に感じる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?