ヤモリのこと
まだ幼稚園にも入る前のこと、私には大好きな遊びがあった。母親は仕事に行き、祖母が畑にでてしまっている間。
誰もいなくなったのを見計らって、普段は開けるなと厳命されている母親の裁縫道具をいれるプラスチックの箱の中から手芸用の白いゴム紐をこっそり取り出す。ゴム紐の端を、まずは手が届く箪笥の抽斗に挟む。そのままゴム紐を伸ばし、反対側にあるおぜんへ。おぜんの脚にゴム紐をくぐすと、つぎはテレビのぼっこりと出張ったスイッチへ。ふすまのささくれに、鴨居にぶらさげられた衣文掛けにと、部屋のありとあらゆる「ひっかかり」にゴム紐を張り巡らせていく。ボール紙にきれいに巻かれていたゴム紐を解ききってしまうころには、部屋を縦横無尽に張っているゴム紐が、巨大な蜘蛛の巣を作り出す。親の裁縫道具を持ち出していたずら?いや違う。この「遊び」はここからが始まりだ。
張り巡らせたゴム紐製の蜘蛛の巣を崩さないように、そっとその下にもぐりこみ、下から立体的に張り巡らされたゴム紐越しに、天井をぼんやりと眺める。ひとつおおきく息をして仰向けになると、近所の学校からの喧騒や、外を走る車の音がかすかに聞こえる。
そしてそのまま、ひたすら待つ。
障子越しにも伝わってくる昼下がりの陽気に、気を抜くとそのまま眠りに落ちてしまいそうになったころ、「それ」は現れる。
私は、それのことを誰に言うわけでもないのに「指の長いおじさん」と呼んでいた。「指の長いおじさん」とはいっても、「それ」は人間の形をしているわけではない。言葉で説明するのは難しいのだが、幼少期の自分の手より少し大きいくらいで、深い皺の刻まれた角ばった頭部、そしてその頭部にまばらに生えている体毛、濁ったふたつの目玉という印象が、どことなく疲れたおじさんのようだったからだ。「指の長い」というのは、いま思い返してみればあれは指ではなく足だったのだろう。とにかく、「それ」をぱっとみた印象が、おじさんの顔から細長い指が生えているように見えたのだ。それ以来「指の長いおじさん」と呼んでいる。
指の長いおじさんは、決まって天井から現れる。幼心に、天井板にあいている木目の穴からやってくるんだろうなと私は考えていた。指の長いおじさんは、鴨居に下げた衣文掛けに張ったゴム紐にそっと降りてくると、そこからゴム紐をつたって部屋中を巡り歩く。私は仰向けになったまま、心の中で指の長いおじさんは次にどっちのゴム紐にいくのかな、と進路を当てるゲームをする。ゴム紐をつたって部屋中をくまなくめぐる指の長いおじさんを眺めながら、いつのまにか私は眠ってしまう。夕方、近所の放送塔から流れるチャイムで目が覚めると、家に誰か帰ってくる前にゴム紐をきれいに片付け、裁縫箱へもどしておく。
こんなことを、家のいろいろな部屋で繰り返した。さすがに風呂場や便所ではできなかったが、どの部屋でも、指の長いおじさんは天井からあらわれ、ゴム紐の綱渡りでじっくりと部屋を検分した後、いつのまにか去っていく。
祖母は、天井の隅に巣を張る蜘蛛をみつけると「あれはヤモリっていってな、追い出してはいけないんだよ。悪い虫をたべてくれているんだよ」と言っていた。それで、小学校に上がるころにはそんな遊びをまったくしなくなった私も、あの指の長いおじさんは自分の家のヤモリのようなものだと勝手に納得して、そのまま永らく忘れていたのであった。
こうして思い出してみると、本当によくあんな異常な生物――かどうかは知らないが――の存在をなんの疑問もなく受け入れていたものだが、幼児期に架空の友達や動物と遊んだりしたことは、誰にでもあるはずだ。
区画整理で取り壊しになる私が育った家に最後の別れを告げようと帰ってきた日の夜、必要な家具は一切合切新築の家に持っていってしまいがらんとした茶の間でごろりと横になったとき、ふと幼少期のゴム紐遊びのこと、そして「指の長いおじさん」のことも思い出したのだった。
頭の奥がきゅうっと絞られるような懐かしさを感じ、私は最近実家の近所にできたというスーパーへ手芸用のゴム紐を買いに走った。こんな時間まで空いている店舗があるのだから、この辺もハイカラになったものだ……などと思いながら店内を探すと、昔の遊びにつかったような長いゴム紐は見つからなかったが、短めのゴム紐をなんとか購入することができた。
帰宅後、茶の間にゴム紐を張り巡らせようと試みる。あいにく長さが足りないのと、昔はひっかけるために使っていた箪笥の引き出しももうなくなっていたため、玄関に置いてあった荷造り用の養生テープでゴム紐の端を鴨居に貼ると、そのまま反対の端を畳の隙間にグイと押し込んだ。
引越しが一通り終り何もなくなった部屋に張り巡らされた一本のゴム紐。小さい頃はもっと縦横無尽に張り巡らせていたものだが、今は鴨居から一本のゴム紐が畳に向かってピンと張っているだけ。懐かしい思い出に掻き立てられた熱情のようなものが一気に醒めてしまうのを感じながら、私はゴム紐を押し込んだ畳に再び横になった。この家も、明日には取り壊しになるのか。期待していた感傷は、驚くほどあっさりとしていた。
幼かったあの日のように陽気も外の喧騒も感じなかったが、電気もつかない部屋の中でごろごろしているとたちまち睡魔に襲われた。
そして次にまどろみから意識が浮上したとき、目の前には「それ」がいた。おじさんの顔に細長い手が生えたような足。間違えようもない。子どものころに見た「指の長いおじさん」だ。心臓と頭が爆発するような衝撃を受けた。身体中の触覚がこれまでにない危険信号を訴えていた。過敏になった視覚と触覚が「指の長いおじさん」を捉え、それが幼少期の暖かい思い出とはまったく違うものである事を全神経を通じて脳髄に送り込んでいる。
「指の長いおじさん」は、鴨居から畳に張ったゴム紐を伝って私の顔の真上まで来ていたのだ。それまで仰向けになって眺めるだけだった「指の長いおじさん」と、初めて目が合った。いま私の頭上に、細長い指でゴム紐からぶら下がる「指の長いおじさん」の目を見た瞬間、私は全てを悟り、そして目を閉じた。しかたがないじゃないか。私のせいじゃない。どうしろというのだ。もう十六年前に亡くなった祖母の言っていた「ヤモリ」は「家守り」と書く。「指の長いおじさん」は、明日には取り壊されるこの家の守り主なのだ。
〈おわり〉