あなたは夜道を歩くとき
あなたは夜道を歩くとき、注意深く空を監視しているだろうか?
そう、夜。あなたは道を歩いている。
月は完全に満ちているわけではないが、街灯に負けないくらいの光でアスファルトの道を照らしているので、目を凝らさなくても歩くのは簡単だ。
終電で帰ってきたあなたは、まだ週末の喧騒が残る駅前から続く大通りをひたすらに東の郊外へと歩いていく。まだ深夜25時過ぎだが、川を越える橋を渡ってしまうと都会の深夜とはまるで別世界の静寂だ。仕事中に感じていた胃のキリキリとした痛みも、このあたりまで来るとだいぶ和らいでくるだろう。
終電で帰ってきたからといって、あなたはタクシーや深夜バスを使わない。築16年目に入った自宅までは2キロほどだが、夜中に駅から家まで歩くのがささやかな楽しみなのだ。 一歩前に踏み出し、家に近づくごとに、都会から引きずってきた嫌なことが一つ一つ消えていくのを感じる。どうしても消えなかった感情は、忘れた事にする。それがあなたの、毎日を潰れずに生きるためのちいさな秘訣だった。
さて自分のペースでゆっくりと歩を進めるあなたは、橋を越え、大通りを越え、畑と住宅地がまばらになってくるあたりまでやってきた。ここまでくると家はもうすぐ。あなたの心はもうほとんどが熱い風呂のこと、柔らかい布団のことで埋め尽くされる。
そこで、なぜそんなことをしたのかは分からない。強いていうなら、月明かりを妙に明るく感じたからかもしれない。
あなたはなんの前触れも無く、ふと顔を上げ、空を仰ぎ見る。月にかかる雲が綺麗だったからか?そうではない。視界の隅の見慣れぬ場所に、見慣れぬものが入ってきたからだ。
それは、これから通り過ぎようとしていた電柱の天辺にいた。月の光と電柱に備え付けられた街灯、二つの光が逆光となって、電柱の上にいるものはその影かたちしかわからない。歩いている勢いが止まらず、あなたは影を認めつつも急に止まる事ができない。身体を無理やり方向転換し、影の方をみやる。
電柱の上の影は“ある”のではなく“いる”。なにかのゴミやいたずらの類ではない。逆光で幽かに光る輪郭は、わずかに、しかし定期的に動いている。ポンプで空気を送り込まれた風船のように。つまり、電柱の上の影は呼吸をしているように見える。
初めて視界の隅に写ったその時は、でこぼこした形のクッションのようなものが引っかかっているようにみえたが、それにしては大きすぎる。歩みを止めた場所で別の角度から見ると、それはうずくまるように電柱の頂上にしがみついている何かであることがわかった。
脊髄の中心に嫌な冷たさを感じ、あなたは本能からさらにぐっと目をこらす。大きさはそう、ちょうど背を丸めた子どもくらいだろうか。しかし、人ではない。人の身体はああいう形にでこぼこはしていないのは直感でわかる。そしてまた、少なくともこの町の自然界に存在する動物で、あれほど大きく、そしてごつごつとした体躯の生き物はいない。
その事実に思い至ったあなたは、直感的な恐怖に見舞われる。だが一瞬遅れてやってくるのは、恐怖心を覆って余りある好奇心だ。この生き物はなんなのか。そもそもこれは生き物なのか。恐怖心がスターターとなり、直後の好奇心がガソリンとなって、心臓は早鐘を打つ。その間も電柱の上のものはゆっくりとその姿勢を変えている。相変わらず細かいつくりは逆光にさえぎられてわからないものの、その動きは紛れも無く生き物のものだ。その塊が蠢く事で、あなたの目は電柱の上にいるものの立体を捉える。うずくまった人間の背中にあたる部分が、ゆっくり、大きく開きだす。それは背中ではなく、身体を包み込むような形で丸め込まれた長くしなやかな腕だった。ミカンの皮がむけるように、電柱の上に丸まっていたものが展開していく。薄く広がった翼膜がついている腕、その中から驚くほど華奢で小さい胴体、そして電柱の頂上部をがっしりとつかんでいる、小さいサイズに不似合いな太くたくましい足。
いまや電柱の上の塊は、左右に広がった「かさ」の内に月光を溜め込むドームのようにみえた。そして、それの平たい両腕が交差するとき、一瞬だが星の瞬きのような光がふたつ、そのドームの中に現れる。それはおそらく眼であろう。平たい腕、すなわち翼を開ききったその生き物の、シルエットの全容が逆光の中に現れる。つぶれた猿のような、蝙蝠のような、また図鑑でみた先史時代の生き物のようなそれは、開ききった両翼に夜風と月の光をたっぷりはらませると、ふわりと空に浮き、そして飛んでいった。
見たこともない生き物を前にしたあなたの思考は完全に停止し、生き物の全容をできる限り記憶しようとしていたので、飛び立った事も一瞬分からなかったほどだ。我に返って、電柱の上の生き物がどこへ飛び去ったのか必死に探すあなたは、しばらく夜空を泳いだ後、ピンで留められたように一点に固定される。
そしてついに、脊髄から湧き出る恐怖が好奇心を覆し、あなたは悲鳴の変わりに肺からすっかり乾いた息を吐ききって、あと数百メートルの家路を急ぐ。家に帰ったら暖かい風呂とやわらかい布団。
しかし風呂に入っても、布団に入っても、目を閉じるたびに忘れられない光景がまぶたの裏側にに映写されることだろう。あなたが見た、それ。それらの姿を。
電柱から飛び立った怪物を追った視線の先、電柱と電線が続いた先の高圧鉄塔に群がる同じ生き物の一団。一切の鳴き声も羽音もなく、光に誘われる蛾のように高圧鉄塔の周囲を飛び、時に鉄骨や電線に止まり、また夜空をたゆたう異形の生き物たち。
こんなにも近くに存在しているのに、だがしかし気がつけるはずがないのだ。
あなたは夜道を歩くとき、いつも注意深く空を監視しているだろうか?
〈おわり〉