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言語化の弊害(-下書き供養-)

※以下は色々と困惑していた時に書いた文章です。

今は、自分の事を理解してもらいたいいう強い欲求は何か追い込まれてる時に起こるある種の狂気のようなものなんだろうなと思う。

その狂気に駆られれると、コミュニケーションという塔を建てる上で、重要な工程をすっ飛ばして無理のある欠陥住宅の塔を建ててしまうだろう。
当然そんな塔は簡単に崩れる

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「言語化」
おそらく、流行るかもしれない

もし流行ったら
言語化が出来ない奴を見下すマウントを
とる人間が増えて
上手く言葉に表せない人が
必要のない肩身の狭さを覚えるのだろうか

小さなSF
空想のディストピア

最近自分の中の理屈っぽさが
全開になってきた

論理的に物事を考える事
ただ事実だけを見つめた時に
迷わず進める時が多いし
少しだけシャキッとはなる

好きと嫌いも事実のうち

してあげたい
やりたくないも
事実のうち

そう考えてみたら
少しはこじつけで楽にはなる

生物ってそうやって
生き残る術を身に付けてきてる

言語化って
とても有効な手段で
一番難しい事でもある

今、なんか書いてるのは
死ぬほどたくさんの言葉が増殖して

言葉に表すことと
伝わるは全く別物

それぞれの単語の解釈はそれぞれ
違う

兎にも角にも
言葉に疲れた

うまいこと言う必要性はないし
なんか言う必要もない

先行する
言葉は意外と信用ならない

意味のわからん言葉で
意志の疎通をはかりたい

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相手にはよるが

他人に自分の事を理解してもらえるはず。
言えば全てが伝わるはず。
理解りあえるはず。
と、他人任せに手放しに思う事は
愚かしいことでもあるとは思う。

理解してもらう事、伝えるということは、ただ声を発するだけでは不可能で、状況とタイミングで適した伝え方というのがあって、お互いの錠穴と鍵の形が噛み合う時に行わないといけない。

自分の知るやり方だけで伝わる事はないのだと
今は思います。

伝えたいのであれば鍵穴の中の形状をしっかりと観察して、自分の鍵の形を変え、
然るべきタイミングを見計らわないといけないのだろう。

難しいね

読んでくれてありがとう

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