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2つの文脈

人文学系のポッドキャストを聴いていて

色んなことを噛み砕いて
文脈的に考えるのが好きだし
非常に面白いのだが

自分の考え方が
探究的に
なり過ぎている気がする

何でしょう筋トレしまくってる状態?

もちろんそれは人間理解に関わる素敵な楽しい時間だし、喜びも興奮もある。

答えの出なさを楽しむことも出来るし、
答えからまた問いが生まれるのも面白い

それで手にした知見やそれでこそ
生まれてくる実践的な知恵みたいなのが
たくさんあるし、自分のものの見方の
視点も大きく大きく広がっていく

ただそれだけを信仰するのは
どうなのかね?
と袖を引っ張る自分もどこかにいて

もう少し、感覚や空気だけを楽しむ
時間って減ってないかい?

とも思ったりする

詩的なものを十分に楽しむ力はあるし、
それだけでずっと長いこと生きてきたので
どちらかといえばこちらの方で語るのの方が
得意だったりする。

感覚を彩り鮮やかに
どう詩的に表現するか

いわゆる平安時代の和歌が上手いやつが
偉いみたいなのもうっすらあったりはする

この感覚やら何やらを
匂いと喩えると

匂いを分解して分析的に語ってしまうと
魔法が解けてしまうんではないか?

でも、語る事による物事の理解の深まり方は
尋常じゃない。

どちらも大事で偏り過ぎない事。
常に意識的にバランスを取ろうとする

この2つの側面を忘れずに持ってる

そして2つの視座がお互い指摘しあう

ピュソスとロゴスとも何となく違う
(覚えたての言葉をすぐ使おうとします)

エモと探究

と呼ぶのが何となく感覚に近いのかな
どっちにも優劣をつけたくないし
同等に尊い話だ

2つの文脈の引っ張り合いが
とても面白い

どっちの視座も持ち合わせていたいな

うまく言語化できたかは
分かりませんが…

おはよう
そして読んでくれてありがとう。

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