見出し画像

0.なぜ落とし穴が発生するのか

はじめに

産業医活動・産業保健活動には正解がないことが多いです。しかし、落ちてはいけない落とし穴、踏んではいけない地雷のようなものは多く存在します。ガチ産業医ブログ(note)でこれまでいくつもの「産業保健活動に関する落とし穴」をご説明しています。しかし、そもそもどうしてこんなに落とし穴が多いのでしょうか?それにもちゃんと理由があり、産業保健活動には落とし穴が発生する背景が多く潜んでいるのです。そこで、この記事では、なぜ産業保健活動に落とし穴が生じてしまうのか、なぜ多くの産業医が落とし穴にはまってしまうのか、について
 [1.産業医側の背景]
 [2.企業側の背景]
 [3.労働者側の背景]

の3つの切り口でご紹介していきます。また、実際には、これらの背景やギャップをうめることは容易ではなく、時間もかかります。さらに、産業保健活動・安全衛生活動・予防医療活動は、効果が分かりにくい・示しにくいということもあります。こうした背景を理解していただいた上で、落とし穴にはまらないように注意しながらも、産業保健活動・安全衛生活動を推進していただければ幸いです。

1.産業医側の背景

-産業医資格取得要件が易しいこと

産業医資格を取得するための要件は、決して難しいものではありません。一般的な産業医資格の取得方法としては、50単位分の研修会を受講すれば入手できるものですので、かなり極端なことを言えば、ほとんど寝ていても取れてしまう資格とも言えてしまいます。一方で、産業医の職務で求められる知識は膨大なものになります(参照:「産業医の職務ー産業医活動のためのガイドラインー」)。そして、産業医活動は、産業医資格研修の座学だけでは身につかないことも多く、現場での実践能力が多く求められます。このギャップもまた多くの落とし穴が発生してしまう原因です。
なお、このような経緯もあってか(?)、次のような事項が2019年に法令に追加されました。専門職として当たり前と言えば当たり前ですが、研修で資格を取得するだけではなく、たゆまぬ努力が求められると言えます。

労働安全衛生規則第14条第7項
産業医は、労働者の健康管理等を行うために必要な医学に関する知識及び能力の維持向上に努めなければならない。

なお、産業医教育における適正な教育時間の調査研究では、すべての産業医に必要な研修時間は120時間であると報告されています。さらに、専門産業医の育成には最低2年が基本となっているとされています。産業医資格を講習会で取ったからといって、簡単にできる仕事ではないことがご理解いただけるかと思います。

-成書からの現場応用の難しさ

すでに産業医活動に関する書籍や情報は多く出まわっていますが、そのほとんどは
「産業医活動とはこう決まっている」とか
「基本的な実施事項はこうなっている」とか
「法律ではこのように定められている」というものです。

しかし、実際の産業医活動では、臨床現場のように、この症状には、鑑別疾患を挙げて、検査を行い、診断をつけて、ガイドラインに沿った治療を行う、ということはあまり多くありません。法令で定められた産業医活動やガイドラインなども確かにありますが、それを現場で運用・応用することは容易ではありません。そして、十分なエビデンス(医学的根拠)がないことばかりです。企業によって規模やリソース、ルール、企業文化も違うため、こっちの企業と、そっちの企業ではやり方も変わりますし、同業他社の成功事例であっても、それをそのまま担当する企業に落とし込むことはできません。つまり、書籍や一般に出回っている情報だけでは、産業医活動を進めることは困難で、ときに気づかずに落とし穴にはまってしまうことになります。

-指導体制がほとんどない

臨床現場とは違い、産業医においては指導体制がある場合はとても稀です。もちろん、産業医が複数名いて指導体制がしっかりしている大企業や労働衛生機関(健診機関など)に行けば、色々と学べる環境が整っていますし、産業医の専門医制度(産業衛生専門医)の研修施設として登録されている場合には、そこで専門的な研修(産業医活動)を行うことで専門医資格を得ることも可能です(詳細は日本産業衛生学会専門医制度委員会HPを参照)。しかし、多くの産業医は、そうした指導を経ることはなく、現場で産業医活動を行い始めることになります。また、日本の産業医の圧倒的大多数は、産業医活動を主とする医師ではなく、臨床医活動と兼務をしながら嘱託産業医として活動を行っています(平成27年日本医師会 産業医活動についてのアンケート)。このような背景があり、指導を受けていない産業医は、仮に落とし穴にはまっても誰からも指摘されることはありません。良くも悪くも産業医活動は独学になってしまうのです。
そして多くの産業医が、専門学会である日本産業衛生学会には所属していません。必ずしも専門学会に所属する必要はないかもしれませんが、やはり医師であれば自らの専門領域の主たる学術学会(専門学会)には所属するのが一般的でしょう。つまり、悲しいことに産業医としての専門性を高めることを重要視していない産業医有資格者が非常に多いと言えるでしょう。
なお、概数ではありますが、産業医の人数規模の概数は以下の通りです。他の臨床診療科と比較しても圧倒的に専門医数が少ないのが現状です。また、産業衛生学会専門医試験は毎年30-40名ほどが受験し7割ほどが合格するという状況ですので、専門医数も今後一気に増えることは見込めないような状況です。

画像1

参考)厚生労働省資料 現行の産業医制度の概要等
   平成30年(2018年)医師・歯科医師・薬剤師統計の概況
   
公益社団法人 日本産業衛生学会平成30年度事業報告
   2021 年 2 月現在の登録数:
   指導医 487 名、専門医 185 名、専攻医 237 名
            日本医学会 日本医学会分科会情報 日本産業衛生学会 
            8,204名(医師約4,140名)

-孤独がデフォルト

前述の通り、圧倒的大多数の産業医は嘱託産業医として活動しますので、企業において産業医は1人だけです。また、専属産業医として数千名の大きめの事業所を担当していても、産業医の数はかなり限られています。法的には、1つの事業所で従業員が3000名以上であれば産業医2名の選任が規定されていますので、逆に言えば、3000名未満の事業所は産業医1名で十分ということになります。つまり、産業医は孤独がデフォルト(標準設定)になり、そのため多くの産業医には、普段の産業医活動を相談する相手や、間違った対応をしても指摘してくれるような相手がいないということになります。ここにも、落とし穴が発生しやすく、落とし穴にはまりやすい素地があるのです。

-臨床医マインド

これは、「臨床医マインドの落とし穴」でもご説明しましたが、多くの産業医は、臨床医活動と兼務で産業医活動を行っています。その中で、マインドセットをどう切り替えられるかは、非常に大きなポイントです。産業保健活動は医療活動ではなく安全衛生活動であり、臨床医活動の延長ではありません。全く別物です。この切り替えができないことで、多くの落とし穴が発生してしまう原因になりえるのです。
なお、企業側・従業員側にも「お医者様」に対する遠慮という話はある一方で、産業医側もまた、「お医者様」として立ち振る舞っている、という話はよく聞こえてきます。企業においては、産業医も、いち社会人・いち組織人としての立ち振る舞いを心掛けたいものです(自戒を込めて)。

-利害関係調整の難しさ

臨床現場では、患者さんの健康状態を良くする、という方向性で皆が同じ方向を向いています。医師の話はちゃんと聞きたいという方ばかりでしょう。しかし、産業保健現場ではそうではありません。安全や健康の話は毛嫌いされて、誰もちゃんと耳を傾けてくれないこともあります。また、企業の営利活動と、従業員の健康確保はときに対立することがあります。安全や健康の確保はときに大きなコストがかかり、安全対策や健康確保の施策が採用されないこともあります。産業医としては、そのような状況の中で、利害関係者とも調整しながら、さらに独立した立場を貫き通しながら、win-winの関係を模索することが求められます。産業医によっては、企業に雇用され給料を受け取りながら、ときに企業や事業者に対して否定的なことを伝えることや、苦言を呈することもあります。もちろんその際には、中長期的には企業の利益になるという視点も欠かせませんが、こうしたことはバランス感覚が求められます。場合によってはその感覚がずれていたり、ぶれていたりするため、その先に落とし穴が潜んでいる、ということになります。

2.企業側の背景

-産業医選任理由・選任経緯

企業が産業医を選任する理由は、「健康経営の推進のため」、「従業員の健康を守るため」、「健康増進・1次予防のため」といった前向きなことばかりではありません。実際には、「法律で決まっているから」、「労基署に勧告されたから」、「親会社・本社・取引先の指示で」といった経緯で、産業医を探して選任するといった場合も多くあります。そして、こういった選任経緯の場合は、元々産業医選任の必要性を感じてなかった企業ですので、えてして安全衛生意識やコンプライアンス意識が低めの企業です。産業医だけがやる気があっても、企業側がやる気がなく、何を指摘しても企業側には一切響かず、産業医活動が空回りしてしまっている、といった話もよく聞きます。

-産業医に対する期待が不明確

私も経営者や総務・人事担当者の方と話す機会がけっこう多いのですが、産業医に対して明確な期待・明確な業務イメージを持っている方はそう多くはありません。ましてや、前述のような産業医の選任経緯の場合はなおさらです。とにかく、企業に来てくれさえすればいいから、衛生委員会に出てくれればありがたい、といった低い期待レベルの場合もあります。期待レベルが低い場合、産業医が落とし穴に落ちたとしても、逆にそこまで気にされないといった事態もありえますし、そもそも何もさせてもらえないといった事態も起こりえます。

-「お医者様」に対する遠慮

地域や企業規模にもよるかもしれませんが、産業医が「お医者様」として扱われてしまうことで、産業医には強く言えない、注意できない、厳しめに評価できない(辞めてもらえない)、遠慮してしまう、といった状況は多いように思われます。もちろん、産業医が上から目線や指導者目線ではなく、学ぶ姿勢・教わる姿勢でいたり、謙虚な姿勢であれば、そのようなことは起こりにくいとは思いますが、実際には、企業の多くの方々が(ときには産業看護職も)、産業医を「お医者」扱いしてしまい、結果として遠慮してしまう、といった状況は往々にして起こります。そのため、産業医が落とし穴にはまっても、誰も指摘してくれない事態となりえてしまうのです。

なお、私自身は20代から産業医として勤務していたこともあり、幸運にも企業の中で、色々なことを教わったり、指導を受けたり、ときにはお叱りを受けたりといったことも多く経験してきました(つまりは、多くの落とし穴にはまってきたとも言えるのですが)。その際に教えてくださった方々は、産業医の先輩というよりも、企業の担当者であり、労働者であり、産業看護職の方々でした。これは、自戒を込めてでもありますが、経験は多少積んできた今でも、当時の姿勢を忘れず、学びの姿勢・謙虚な姿勢を持ち続けていたいと考えています。

-ブラック企業の存在

企業は利益を追求する組織あり、従業員のために安全衛生活動を熱心に行っている企業ばかりではありません。企業側の利益・都合のために、産業医がうまく使われてしまうといったことも往々にして起こります。こちらは「ブラック産業医の落とし穴」もご参照ください。

2.労働者側の背景

-産業医に対する期待が不明確

従業員側もまた、産業医に対する期待やイメージは不明確であることが多いです(そもそも一般的に産業医の認知度は低めです)。産業医がどのような役割なのかをきちんと説明できる労働者はほとんどいないと言っても過言ではないのかもしれません*。場合によっては、自身が務める企業に産業医がいるのかも知らない労働者や、いたとしても会ったことがないと言う労働者もよくいます。たしかに、企業においては、大多数の方は普通に働く元気な方々ばかりなので、健康に問題を抱える労働者に対応することが多い産業医のことを、知らない・会ったことがないという状況は仕方ないと言えるのかもしれません。しかし、どのような時に活用してよいのか、頼っていいのか、相談したらいいのか、ということが理解されていないことは望ましい状態ではありません。結果として、たまたま健康を害したときに、突然引き合わされて産業医と対面しても、お互いの認識にギャップがあり、これがまた落とし穴を生む原因となってしまうのです。

*産業医=企業内診療所にいるお医者さんというイメージの方もありますが、これは以前の話であり、現在は基本的に診療活動である診断と治療をせず、企業における安全衛生活動(産業保健活動)を行うことが産業医の役割です。(「診断と治療をするという落とし穴」もご参照ください)

-「お医者」に対する遠慮

労働者もまた、産業医を「お医者様」として扱うことによって、落とし穴的な対応をされても、結局は遠慮してしまう方はとても多いです。臨床現場でも減ってきているとは思いますが、やはり旧来の医者ー患者関係、パターナリズム的な関係をそのまま引きずってしまうケースも多いようです。しかし、残念ながらこのような関係性も、産業医の落とし穴を生んでしまう土壌になってしまいます。本来、産業医は労働者の健康支援、健康障害を防止するためにいるわけであり、労働者と協働して企業の安全衛生活動を推進する者ですので、遠慮するのでなく、積極的な連携が求められます。産業医自身としても、お高くとまることなく、同じ釜の飯を食べるような関係性、同じような目線、ともに企業の安全で健康的な職場をつくるという姿勢が求められます。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?