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50.災害対策の落とし穴

はじめに

企業に起こりうる災害には、大地震や津波等の自然災害、火災や爆発などの大規模事故など様々な事象があります。そのような災害時には、労働者は、時間経過とともに様々な健康リスクに直面します。災害時の対応をより効果的に行うためには、BCP(事業継続計画)やマニュアル、物品の準備などの事前準備や日頃からの訓練が重要です。しかし一方で、マニュアルでは想定し得なかった事態が発生することも実際の災害では少なくありません。そのため、実際に災害事象が発生した際に、産業保健職は、適切にリスク評価を行うとともに、優先順位を付けて予防的介入を行っていく必要があります。この記事では、災害対策における落とし穴について説明いたします。

本内容は筆者も関与している「危機事象発生時の産業保健ニーズ 〜産業保健スタッフ向け危機対応マニュアル〜」を元に作成しております。資料等は、「災害産業保健PROJECT」に多く掲載しておりますので、ぜひご参照ください。

救急・トリアージの落とし穴

医療者による災害対応ということでイメージされるのは、一般的には重症者に対する救急処置やトリアージだと思います。確かに、そのことは非常に重要なことではありますが、救急医療対応は企業で災害が発生した場合の様々な課題のうちの一つにすぎません。企業で災害との危機事象が発生した場合、まず関係者の課題として認識が集中するのが直接的に傷病を負う労働者です。この課題は顕在化しやすいですし、医療者としてもその場で持ちうる医療技術で一つ一つ対応することになると思われます。一方、この課題の背後には間接的に影響を受ける多くの労働者が存在します。実際のところ、企業の災害事象の際には最前線で対応を継続するのは傷病者ではなく”健康な”労働者であり、その労働者に対する二次予防としての健康管理が、災害対応の命運を分けると言っても過言ではありません。産業保健職は、被災直後の緊急対応だけでなく、公衆衛生や産業保健的側面から、危機事象が従業員や時には地域住民へ及ぼす健康影響に対して、長期的に評価して対応していく必要があります。また、事業所全体の被害を最小限にして事業を継続させていくために、産業保健専門職として何ができるのかということも考えていかなければなりません。このように、危機管理にあたる産業保健専門職は、健康を守る医学的視点と経営者の視点、両面をバランスよく考え対応していくことが大切です。企業内で重大事故などの危機事象が発生して、現場や事業責任者は緊急対応に追われる中で、産業保健専門職は医学・保健の専門家という立場で事業所全体を俯瞰的に見ながら、経時的に各段階でどのような健康被害が生じているのか、また今後どの部署にどのような健康障害リスクがあるのかということを科学的な目で冷静に評価していく必要があります。

二次災害の落とし穴

「CSCATTT」とは、災害発生後にとるべき行動である7つの基本原則で以下ののそれぞれの頭文字をとったものです(このうちTTTは前述の通りです)。

Command and Control (指揮と連携)
Safety (安全確保)
Communication (情報収集伝達)
Assessment (評価)
Triage (トリアージ)
Transport (搬送)
Treatment (治療) 

この概念を知っておくことも大切ですが、この中で強調したいのは「安全」です。災害発生時にまず確保するべきは自身の安全です。災害発生時に、いの一番に現場に向かいたくなる気持ちはわかりますが、現場は二次災害の恐れがあり非常に危険な場合があります。産業保健職自身も被災者になりうること、そして二次災害に遭って被害を拡大させないことが重要です。

ベースなき災害対策の落とし穴

災害時に適切に対応していくためには、日常の産業保健活動が基盤になります。平時からできていないことは、有事にも対応することはできないでしょう。災害に対する事前準備を行うことは、日常の産業保健活動の見直し・強化の機会であると考えることもできます。

参照:「危機事象に対する事前準備アクションチェックリスト

前例なき災害対策の落とし穴

ほとんどの産業保健職にとって、災害事象は日常的に経験するわけではなく、長年の産業保健活動に従事したとしても数回経験するに過ぎません。そして、災害は多様であるため、災害発生時の対応を個人の経験の蓄積に期待することはできず、試行錯誤の対応を行わざるをえないというのが現状です。本来であれば、他の災害発生時の対応から学ぶことができれば良いのですが、企業における対応はほとんど公開されていません。そこで、災害産業保健PROJECTでは、過去の産業保健職の災害対応を詳細に分析し、危機発生時に生じる産業保健ニーズを整理しました(参照:「産業保健スタッフ向け危機対応マニュアル」)。このマニュアルを用いることで災害発生時の対応をおよそ8割網羅できたことが示されています(資料)。しかし、それでも全ての対応を網羅できているわけではありません。災害時には、それぞれの企業特有の健康問題が発生することが予想されます。そのため、それぞれの産業保健職が適切にリスク評価(Assessment)を行い、迅速かつ適確に対応していかなければならないのです

対応者の脆弱性の落とし穴

復旧・復興の原動力は働く人々です。しかし一方で、災害対応に従事する労働者は健康リスク上の脆弱性を抱えています。つまり、自身や家族も被災している可能性があること、災害対応の特殊な訓練を受けていないこと、災害対応に必要な知識を十分に有していないこと、適切な保護具を装着せずに災害対応に従事する場合があること、年齢・経験(過去の災害対応や被災経験など)・ストレス耐性も様々であること、復旧作業に意図せず・希望せず・準備せずに従事せざるを得ないことが災害対応に従事する労働者の脆弱性の特徴としてあげられます。さらに、災害事象が自分たちの事業活動によって起きた場合には世間からのバッシングを受けることもあります。災害発生時の労働者の支援を行う産業保健職は、これらの点を理解した上で、支援を行っていく必要があります。

平時と異なる作業環境の落とし穴

職場巡視の落とし穴」でも言及した通り、産業保健職は現場理解が非常に重要です。しかし、災害時は平時の作業環境とは変わりうる点にも注意が必要です。例えば、停電で空調が効かない、倒壊の恐れがある、化学物質の漏洩がある、エレベーターが使えない、過剰な保護具を装着する、適切な保護具が手に入らないといった状況です。また、労働者側の要因としても、習熟した作業者がいない、作業者が十分な休息・睡眠がとれていない、労務(残業)管理が行えないといった事態も起こり得ます。そのため、平時では起こりにくい健康障害が起きうるということを知っておく必要がありますし、必要に応じて職場を巡視する必要もあります(立ち入りの安全確認が完了してから)。平時からも現場理解が重要かつ、有事の際にどう変わったか、ということを知ることも産業保健職には求められますので注意してください。

スクリーニングの落とし穴

災害時にスクリーニング体制がないと上司などに体調不良を気づかれぬまま勤務することがあり、重篤な健康障害に発展する可能性があります。そのため、タイミングを見極めて全従業員もしくは関連部署を対象としたスクリーニング評価を行い、早期発見や早期対応に繋げる必要があります。スクリーニング方法の選定については、事業所規模やスクリーニング対象の従業員数、産業保健職の資源に合わせて検討する必要があります。危機事象によるメンタルヘルスへの影響として、発生から時間の経過に応じて呈する症状や疾患が変化する可能性があり、スクリーニングしたい対象疾患についても検討が必要になります。方法としては健康診断時の問診票を改変したり、ストレスチェックを活用したり、全員面接を実施することも方法として検討されます。また、注意が必要なのはスクリーニング実施の時期です。災害時には特有の心理状態の変化がみられます。そのため、タイミングによって結果が大きく変わってきます。また、支援体制が十分に整わず、やるだけやって放置したり、ただの研究・調査目的のスクリーニングは逆効果にもなりえますので注意してください。

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災害時のメンタルヘルス」より

フェーズ感なき災害対応の落とし穴

一般的に、災害医療における経過は、超急性期(〜48時間)、急性期(〜1週間)、亜急性期(〜1ヶ月)、慢性期(1ヶ月〜)という時間単位で表現されています。しかし、企業での危機事態における産業保健活動は、被災規模や危機の種類、事業所全体の復旧作業の進捗などに大きく左右されるため、一律に時間で区切ることは困難です。そこで、災害対応のマニュアルでは、時間軸を事業所全体の経過として、[1.緊急対応期]、[2.初期対応期]、[3.復旧計画期]、[4.再稼働準備期]、[5.再稼働期]の5つのフェーズに区分しました。また、時間経過とは無関係に、インフルエンザや熱中症など季節特有のリスクへの対応も不可欠であるため、5つのフェーズとは別に[季節に関わる問題]として区分しています。

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なお、被災規模が周辺地域に及ぶ広範囲な場合には、復旧作業が遅れることもあります。このような場合、フェーズを先に進めることができない、あるいはある特定のニーズが長期間にわたり生じる場合もあります。一方で、あるフェーズだけが極端に短くなる、もしくは抜けることもあります。事業所内で異なるフェーズが存在することもあります。事業所の再稼働に向けて従業員が一丸となって前進していく中で、災害事象の責任者への追求などの対応が長期化する者や、被災のショックから立ち直れずに取り残される者が出てきます。下図の「被災者の回復の2極分化」は地域におけるイメージであり、職域とは異なりますが、職域においても事業所の災害復旧フェーズから取り残される従業員が発生しうることに注意してください。そのような従業員の存在を認識することで、産業保健職が各フェーズに応じて背中を押しサポートすることができます。事業所全体のフェーズの変遷を俯瞰的視点として常に意識しつつ、多様で経時的に変化する健康リスクを予想しながら、迅速かつ適確な対応を予防的に行っていくことが望まれます。

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災害時の心のケア」より

スピード感なき災害対応の落とし穴

平時の産業保健活動は、比較的時間に余裕があり、丁寧に情報を調べる時間があります。一方で、災害時の産業保健活動ではスピード感や前述のフェーズ感が重要になります。刻々と状況は変わるため時間やタイミングを意識したスピーディな対応、情報収集、意思決定がカギとなります(前述のCSCATTTのCommand and Control (指揮と連携)とCommunication (情報収集伝達)。これは特に情報が不足する災害発生初期に重要です。そのため、事前準備において役割分担や意思決定、情報連絡体制、情報収集の仕組みを構築しておくことが望まれます。

リスクのトレードオフの落とし穴

リスクのトレードオフ*は必ずしも災害特有の問題ではありませんが、災害事象においては、やむを得ず他のリスクを抱えざるをえないこと、そのリスクの評価や低減、コミュニケーションが不十分になることなどが起こります。例えばコロナ禍の初期においては、半強制的に在宅勤務を行うことで感染リスクを回避できましたが、一方でその他のリスク(ミスコミュニケーション、情報漏洩、メンタルヘルス不調など)も抱えることになりました。他にも、福島第一原発においては放射線障害のリスクを避けるための放射線防護服は、熱中症のリスクをあげることになりました。有事には、平時の働き方が変化しますので、産業保健職は専門家としてリスクを評価することが求められますし、リスクのトレードオフを評価した上で、関係者とコミュニケーションを図っていく必要があります。

*リスクのトレードオフ:あるリスクを避けようとしたときに、そのリスクを回避することで、もっと大きなほかのリスクを抱えてしまうこと

外部支援の受援

災害の重要なポイントは、需要と供給の不均衡であり、外部支援が必要であるということです。つまり、災害時には平時の産業保健リソースでは需要に対する供給が追いつかないということがあります。例えば、物資の支援が必要になったり、精神科医やカウンセラーなどの専門職の支援が必要になるということです。しかし、そもそも必要な支援が何かを見極めることが必要になりますし、必要な資源につながるためにも平時からの専門職同士のネットワークの構築も重要になります。

外部支援の落とし穴

他の企業が被災した場合に、外部の立場から支援を行いたくなることはあるでしょう。例えば、災害地域には多くのボランティアが自主的に集まったことも同じ状況でしたが、統制のとれていないボランティアが逆に被災地域に負担をかけたという事例が多発しました。外部から支援する際の重要なポイントは、正規の支援のルートの乗ること、既存の支援チームと連携すること(指示を仰ぐこと)、支援を押し付けず現場の声(ニーズ)を聞くこと、現場の文化を尊重し土足で踏み込まないこと、支援者自身の衣食住・安全・健康を確保すること、といったものです。被災企業の支援を行う際には、このような点にご注意ください。

災害時に必要な産業保健職のコンピテンシー

吉川らがまとめた災害時に必要な産業保健専門職のコンピテンシー*の要約は以下の通りです(結果抜粋・一部改変)。
*コンピテンシー:高業績に共通してみられる行動特性

災害時の産業保健専門職に必要なコンピテンシーとして 29 のサブカテゴリ、9 つのカテゴリが抽出された。
災害発生時に求められるコンピテンシー
①災害によって生じる健康への影響を総合的に把握して本質を見抜く
②時間の経過とともに変わる状況を適切にアセスメントしながら業務の優先順位をつける
③自身の安全や健康を確保しつつできることから取り組み始める
④状況に柔軟に対応しながら効率的な方法を工夫し産業保健実践を継続する
⑤チームとして各々の役割を発揮できるよう環境を整え協調的な行動をとる
⑥組織内での産業保健部門の立ち位置を調整しネットワークを活用する

災害発生時に備え平時から求められるコンピテンシー
⑦産業保健専門職の基盤となる個人特性を備え持つ
⑧社員や会社から信頼される関係性を築く
⑨災害時の経験を今後の産業保健実践につなげる

災害における産業保健に関する資料集

0. 災害産業保健PROJECT
1. 災害時の心理支援の基本:サイコロジカル・ファーストエイド
2. 職場における災害時のこころのケアマニュアル
3. 化 学 プラ ン トに お け る 大規 模 事故 へ の 対応 と準備
4. 林剛司. 被災時の初期対応の危機管理体制~経験を踏まえて~. 産業保健21. 72号.2-4
5.濱舘 陽子, 佐々木 吉子, 三浦 英恵. 東京都千代田区の企業の災害対策の実状と課題.産衛誌 2019;61(3): 95-107
6. 豊田 裕之, 久保 達彦, 森 晃爾.米国における危機対応に従事する労働者の安全衛生管理体制. 産衛誌2016;58(6):260-270
7. 豊田 裕之, 森 晃爾.大災害における産業保健の課題:世界貿易センタービルテロ事件と福島第一原子力発電所事故における産業保健上の課題に関する文献の比較による考察. Journal of UOEH 2017;39(2):153-159
8. 吉川悦子, 安部仁美, 横川智子,久保 達彦,立石清一郎, 森晃爾. 熊本地震で被災した事業場に所属する産業保健専門職の経験からとらえた災害時に必要な産業保健専門職のコンピテンシー. 産業衛生学雑誌 J-STAGE 早期公開 (2021年1月7日)
9. 辻 雅善, 各務 竹康, 早川 岳人, 熊谷 智広, 日髙 友郎, 神田 秀幸, 福島 哲仁.
福島第一原子力発電所における事故収束作業員の熱中症発生に関する特徴
産衛誌.2013;55(2): 53-58

10. 阿南英明災害医療教育とは何か,そしてどう学ぶのか日内会誌 2014; 103(6):1433-1437


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