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韓国語版出版のお知らせと、長いひとりごと

拙著『まちの風景をつくる学校 神山の小さな高校が試したこと』が出版されて約1年。なんと・・・韓国語に翻訳されました!わーい!

訳者は『神山進化論』(学芸出版社、神田誠司さん著)の韓国語版と同じ方のようです。

訳者あとがきをgoogleレンズで訳してみたところ、このような一節がありました。(意味が読み取りにくい部分は、少し文を整えています)

(これは)教育学や農業教育の重要性を強調した本ではない。むしろ教育を媒介に中間支援組織の役割、未来世代の生活に対する観点、地域再生努力の方法を振り返った本と見るのがより正確であろう。
近年特に人口減少の圧迫と地域再生の必要が同時に高まっている我が国の状況があるなか、どうすれば経験を蓄積し、どうすれば機能する中間支援組織を作ることができ、どのようにすれば可能性を感じる人生を作ることができるかについての示唆点を提示した本だ。 

力強いメッセージです。
この多くの人たちとともに積み重ねてきた取り組みや大事にしてきたことが、書籍という形で軽やかに海を渡って韓国の方々に伝わって、何かのヒントになるとしたらこれほどうれしいことはありません。


さて。今日は、「まちの風景をつくる学校」というタイトルについて。
実は、原稿を書き始めた頃にこのタイトルが思い浮かんでいたものの、「書籍タイトルとしては引きが弱いんじゃないか」なんて声もあったりして、一度お蔵入りしていました。
その後全体を書き上げて、いよいよタイトルどうしよう?となった際に、改めていろんな案を出してみたんです。そのときやっぱり「これが一番私たちの取り組みを表しているフレーズだ」と確信して、どうにか採用してもらったのでした。

私からすれば「名タイトルつけたぜ!」という気持ちだったんですが、タイトルに対する反響が期待していたほどなくて。
書籍名って、見かけてピンと来ることはあれど、その意味するところを語るものはそんなに多くないように感じます。自明だという場合もあるし、あえて筆者も語らないし読者も聞かない、みたいな空気感あると思うのは私だけでしょうか。ご想像にお任せします、な感じ。

そんなわけで、あまり尋ねられることのなかったタイトルについて、ここいらでちょっと書いておこうと思い立ちました。
一年越しではありますが。いや、むしろ一年経ったからこそ。でも声を大にして言うことでもない気もして、こっそりnoteにだけ書き残すことにします。


「風景をつくるごはん」からのインスピレーション

神山関係者には既知のことですが、実は元ネタというか、元となった言葉があります。それが「風景をつくるごはん」です。
これは、東京工業大の真田純子先生が提唱するアクションで、農村風景の維持に対して消費者一人ひとりができることとして、食材の選び方を示したものです。真田先生は私に石積みの世界を教えてくれた方でもあります。日々の食事が農村風景をつくっていて、そのつながりへの想像力を豊かに持とう、というメッセージだと私は受けとめました。
神山町に移り住んだ初期、真田先生のレクチャーを聴きながら、「どんな食事がより良い風景をつくるのか」「どんな農業がより良い風景をつくるのか」という問いが自分の中でぐるぐると巡っていたのを覚えています。そして、農業高校に関わりはじめていたこともあり、「どんな農業高校であれば、より良い風景につながるのか」という問いも生まれました。周囲に対しては特に言葉にしてきませんでしたが、思い返すと自分の頭の片隅にずっと残っていたような気がします。


どこででも学べる時代に、ここで何をどう学ぶ?

オンライン授業もずいぶんと一般的なものになりました。その気にさえなれば、大人も子どもも場所に関わらず学びたいことを学べる時代になってきたと言えます。そうした状況下で、高校3年間という貴重な時間をあえて地方の学校で過ごすことの価値は何でしょうか。受け入れる側として、高校生たちにどのような経験や機会を提供できるのでしょうか。

その問いに、自分なりの答を見つける過程や周囲からもらったヒントについて書いたのが第4章でした。
同じ教科書で同じ学習コンテンツを享受するのだけであれば、ここじゃなくていいんです。大人でさえ答えを持っていなくて試行錯誤している現在進行中の取り組みに、身を投じてみる。一緒に力を重ねてみる。その過程で、必要な知識や技術を身につけ、社会への眼差しや仕事に向き合う価値観を自らの感性をフルに生かして学びとる。

神山町という山あいのまちにある高校が地域とともに取り組んできたのは、今ここだからこそ経験できることばかりです。耕作放棄地を再生させたり、高齢の方々の庭の手入れをしたり、地域の種を育てて植えたり。
農業高校の専門性を生かして土地に手を入れていく取り組みは、文字どおり「まちの風景をつくる」ことだと思ったんです。


「眺める対象からの転換」という不可逆的な学び

特に人が居住する土地の風景は、地形・地質・気候の諸条件と、先人たちの営みが折り合いをつけながら時間をかけてつくられてきたものです。いつか誰かがつくってきた風景の中に、今自分がいて、そして自分自身も風景に手を入れていくことができる。石積みを修復する行為はその学びをくれる最たる例でした。
面白いのはこの学びは不可逆的ということ。私だけでなく多くの人にとって、石積みを一度経験すると、つい他の石積みが視界に入って仕方なくなってしまうのです。
手を入れると、風景を見る目が変わってしまう。眺めるだけの対象から、時代の流れや地域性を教えてくれる存在になり、そしてまた自分自身もまたその流れに手を入れていくことができるという実感が生まれます。

自分たちの暮らしや仕事の積み重ねが、風景としていつの日か現れてくる。
本書で紹介したような様々な授業やプロジェクトを通して、そんな実感を得ていく。それは生徒だけでなく、大人もです。


まちの風景が変わってきた手応え

そして最後に。中学卒業と同時に町外の高校へ進学していく人が圧倒的大多数で、車社会で、スタバもゲーセンもないこのまちでは、放課後や休日にうろつく高校生をほとんど見かけませんでした。
数年を経て、町内のいたる所で高校生を見かけるようになってきました。買い物していたり、バイトしていたり、川で遊んでいたり。耕作放棄地だった場所から金色の小麦畑が生まれていたり、やわらかい植栽に囲まれてちびっ子たちが車を気にせず駆け回っていたり。
周囲からすればなんのことはないでしょう。でも長くこのまちにいた人たちには確かに伝わる、風景の変化があります。


徒然に書きましたが、いくつかの視点が、このタイトルには込められています。長いひとりごとになりました。

そうそう。こういうタイトルをつけたものだから「風景」というキーワードが目に留まるようになりまして。
ふと手に取った本の中で、ランドスケープデザイナーの廣瀬俊介さんは、具体的な事例を元に、風景を通して環境の成り立ちの理解を深めていくことの重要性を伝えています。

私たちは同じ場を見ても完全に同じように見てはいないはずです。その場をかたちづくる因子に見る側が気づけなければ、たとえそれが目に見えるかたちにあらわれて目に映りはしても、意識して見るまでには至らないからです。
(中略)
何と何がどう関係して環境ができているかをどこまで知っているかで、風景を見た時に環境を成す因子に気づける程度が変わり、知っていて気がついたがゆえに今はそれより知らないことに対して想像を巡らせる機会も得られるのではないでしょうか。

『レジリエンス ーよみがえる力ー 森・風景・地域・人の交差の中で』(日本評論社、清水美香編著)


場を見る視力を高めていかねばと思う今日この頃です。

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